家族の声

ずっと家族に尽くしてくれた父。定年して自由になったいま、思う存分好きなことをしてほしい

  • 西岡憲吾(麻酔科医)&岩本麻里子さん(娘)

    62歳の定年を機に、長年考えていた海外での医療活動を国境なき医師団(MSF)で始めた、麻酔科医の西岡憲吾。娘の麻里子さんは「いままで本当に母と私のことだけを優先にしてきてくれた」と振り返りながら、いまでは自由に日々を楽しんでいる父の姿を見るのが嬉しいと語った。

定年後に夢を叶えた父。イラクへ行くと聞き……

麻里子:本当に優しい父です。私が子どもの時からずっと、仕事と家庭を何よりも大事にしてくれていました。特に趣味もないしお酒も飲まない。好きではないのか、家族がいるから断ってきたのかは分からないけれど、職場の付き合いもほとんどせず、父にとってはとにかく私たち家族が優先でしたね。国境なき医師団(MSF)に入り、イラクに行くと聞いた時には、率直に命の危険など大丈夫かなという思いが一番に湧きました。

憲吾:事前に相談したわけではなく、全部決まってからの報告だったからね。

麻里子:ただ、その年齢で、MSFに入るという自分の夢や思っていたことを着実に叶えていく父の姿を見ながら、すごいなぁと思っているんです。いままでずっと家族のために尽くしてきた分、定年して自由になったいま、やりたいことをやってもらいたいなぁと。父も私に対しては「好きなことや、やりたいことをやればいいんだよ」と言いながら育ててくれましたから。

憲吾:悪く言えばほったらかしなんですけどね(笑)。でも、基本的には麻里子のやりたいことをやってくれたらそれで良かった。自分で自由に決めた方が自分で責任を持ってしっかりできますからね。麻里子が看護師になると決めた時や、結婚すると決めた時も、「それでいいよ」と応援しました。

麻里子:私が看護師になりたての時、職場でのちょっとした悩みを相談したり、理想と現実の差などを聞いてもらいたくて毎晩電話していたの、覚えてる?

憲吾:そうだったっけ(笑)? あまり覚えてないけど、話があればいつでも聞いてあげていたかな。

麻里子:実は母が亡くなったのが、私の看護師国家試験の直前だったんです。その後看護師として就職して家を出たのですが、精神的な落ち込みや、新しい環境へのとまどいなどもあって、その頃は父との毎日の電話が私の支えでした。

父を通して人道支援のリアルを感じる

憲吾:海外の医療活動にはずっと興味があっていろいろと調べていました。多くの団体がある中で、私にはMSFが一番合っているなと思いました。ちょうど、日本麻酔科学会の展示ブースにMSFが出展していて、そこで話を聞き、その後説明会にも参加した結果、定年後はMSFに参加することを決めました。

麻里子:父は、初回派遣のイラクを皮切りに、その後もいろいろな国や地域で活動をしてきました。父が話してくれたエピソードの中で一番印象に残っているのが、ある赤ちゃんの話です。泌尿器系の先天的な奇形があり、日本でなら手術をして成長していけるけれど、現地ではそこまではできず、そのまま見守ったと。難しい治療を続けたとしても元気に成長できない中、さらに家族の負担も増える。そういう状況で、無理に生かしていくのではなく、それは病気として受け入れて、積極的治療をしないという選択があるという世界にすごく衝撃を受けました。

憲吾:日本のような先進国の医療を、現地で押しつけてもうまくいかないだろうと。各土地、各現場に応じて折り合いをつけながら、患者さんや家族にとって一番良い方法を現地のスタッフと相談し、一緒に進めていくのが一番良いのかなと。

麻里子:いままでMSFでの父の活動を取り上げてくれたメディア記事は全部読んでいますし、どういう患者さんが来るの?とか、現地の治療に対する考えなど、興味を持って父に聞きますね。そんな時、自分は行かないけれども人道支援のリアルを身近に感じることができます。

憲吾:実は、私は人道支援を前面に出しているつもりはないんですよ。麻酔科という仕事自体が好きで、結果的にそれが人道支援に繋がっている、という感覚です。なかなか行けないところに行かせてもらったり、いろいろな人に出会わせてもらったり、現地の美味しいものを食べさせてもらったり、という老後の楽しみなんです。定年を一緒に迎えた同級生たちからも「すごいね」とか「頑張っているね」とか言われますけど、実はそんなつもりはなくて。「大丈夫なの?そんなところに行って!」などと聞かれたら「大丈夫ですよ~、楽しんでますから」と、こんな感じで答えています(笑)

いまでは肩の力を抜いて出発のお見送り

麻里子:初回派遣でイラクに行くと聞いた時は心配はしましたけれど、その後、パレスチナ・ガザ地区、カメルーン 、南スーダンなどと続き、いまではだんだんと慣れてきて、「あれ? 今度はいつ出発だっけ?」という感じです(笑)。出発時のお見送りも初めの方はしていましたけど、父もそこを求めているわけではないんだろうな、と分かってきましたし、いまくらいの方がきっとお互いに気楽に送り出せていいのかなと思っています。

憲吾:初めての時は「行ってらっしゃい」の会を設けてくれて、みんなでご飯を食べたり、わざわざ作ってくれたTシャツをくれたよね。

麻里子:そうそう!現地でも着れるようなTシャツを渡しました。冗談半分もあったのですが、印刷屋さんに頼んで父の似顔絵をプリントしたものを作りました。現地で楽しく、外国人スタッフたちとのコミュニケーションの一つになるかな、という思いを込めました。

憲吾:一回も着てないや(笑)

麻里子:え? なんで着なかったの? まだ着れるチャンスあるからね

憲吾:今度着ます(笑)

2021年4月、MSFでの4回目の派遣、南スーダンにて。当時の外科チームと一緒に

海外派遣は父の天職。好きなことをして楽しんでいる姿を見るのが嬉しい

麻里子:何度も父から聞いているのは、MSFの現場ではスタッフが命の危機にさらされることはない、ということです。安全管理もしっかりしているよ、って。その辺りが心配な時もありましたけど、いまはもう大丈夫だろうなっていう安心感はあります。いつも遊んでもらっている3人の孫たちも、「じいじはいまここにいるんだよね」と、世界地図のイラクやパレスチナを指さしながら話しています。

憲吾:実は最初の目標としては、MSFの活動は65歳までに5回行ったら引退しようと思っていました。私の父親が65歳で亡くなったので、私も65歳くらいまでの人生って思ってそれを目標にしていたのですが、生きながらえながら66歳になりました。なのでこれからも続けようかなと思っているところです。次の派遣の話も入ってきて、麻里子には、それが本決まりになったら伝えようと思っています。

日本に帰国している間は時々集まって家族団らんを楽しんでいる。
3人の孫たちは、じいじが大好き

麻里子:仕事をしながら人道支援にも繋がって、なにしろ定年後の人生を楽しんでいる。これはもう父の天職なんだなと思います。あんなに私たち家族に尽くしてくれた父が、いまこうやって自由に好きな事をしている姿を見るのは私も本当に嬉しいです。これからも機会があれば、どんどんMSFの活動を続けてもらいたいと思っています。

初回派遣の出発前に麻里子さんに作ってもらったTシャツ。
本人の似顔絵と「I’m an anesthesiologist=私は麻酔科医です」と書かれている。

西岡憲吾

1983年に広島大学卒業。広島大学病院、松山赤十字病院、中国労災病院、北九州総合病院、県立広島病院、中電病院に勤務。定年退職した2018年より国境なき医師団(MSF)の医療・人道援助活動に参加。これまでイラク、パレスチナ・ガザ地区、カメルーン、南スーダンなどのプロジェクトで活動。

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