家族の声

まさかこの子がやり遂げるとは思わなかった。
辛かったらいつでも戻ってくればいい

  • 白根 麻衣子(アドミニストレーター) & 白根 洋子さん(母)

    人事や財務を担当するアドミニストレーターとして国境なき医師団(MSF)の現場で活動をする白根麻衣子と、彼女が帰る場所をいつでも用意して待っている母の洋子さん。「どうして送り出してしまったのだろう」と後悔したこともあると洋子さんは明かす。それでも母として、娘の意思を尊重し応援したい。いまではMSFの現場で活動する彼女を通じて、世界情勢や人道援助の大切さを勉強しているのだと話す。

人道援助は甘くない。この子にはできないだろうと思っていた

:私はまずこの子がMSFでの活動などできっこないと思っていました。3姉妹の中でも、他の2人は学生のうちから海外のボランティアに積極的に参加していたけれど、この子はそのような国際協力など興味もなかったんです。そもそも虫も嫌いできれいな所にしか住めないような子がMSFの現地での生活なんてできるのか、って。

麻衣子:姉たちがフィリピンやタイ、インドなどの貧困地域でボランティアをしているのを見ても「よくやるなぁ」程度にしか思っていませんでした。どうせ海外に行くならハワイなどのリゾートで遊ぶ方がいいのになぁと(笑)

麻衣子は元々民間企業で働いていたが、教育学に興味を持ちイギリスに留学。帰国後に日本のインターナショナルスクールで働くようになった。ここが彼女のターニングポイントとなる。この学校では、社会的なバックグラウンドには恵まれていないが、可能性がある世界各地の子どもたちに日本で教育を受けてもらうという奨学金制度を提供していた。麻衣子はそれに応募してくる子どもたちの選考に関わった。

麻衣子:例えばインドのカースト外に生まれ、教育を受けられない子や、難民キャンプで育った子、世界50カ国くらいの子たちとオンラインで面接をしました。日本にいては決して見えない世界の現実を初めて身近に感じました。勉強をしたいけど自分たちの環境ではそれが叶わない、そういう子たちが実際に日本に来て勉強をしている姿を見て本当に感動しました。そのうちに、もっと直接的に支援をしたい、もっと何かをしたい、と思うようになっていきました。

麻衣子はこの頃からインターネットで「人道支援」「国際協力」というキーワードで検索を始める。そうすると必ずMSFが出てくる。医療者ではない彼女はMSFという医療援助団体で自分が活動地に行けるなどとはこの時はまだ思っていなかったと言う。そんな時にMSFの日本事務局が出した「総務・人事」の募集に目を止めた。「これなら自分の経歴にもつながっている。ここで人道支援を支えることができる」と思い飛びついた。これが彼女にとってMSFの世界で働く第一歩となった。

麻衣子:日本事務局内とはいえ、働いていれば連日のように世界中の現場での活動の話を耳にします。そして何よりも驚いたのは、活動現場で働くスタッフの約半分が非医療者ということでした。ますます現場に行きたいという思いが募っていきました。

:私はMSFに寄付をしていたので、実はこの子よりもずっと前からMSFと関わっていたんですよ。ニュースレターも届きますしMSFのことはよく知っていました。だからこそこの子には現場での仕事はできっこないと思いました。人道支援の現場はそう甘くない、って。

麻衣子:母がMSFに寄付をしているなんて全然知らなくて、後から聞いてびっくりしました。人道支援に少し興味を持った程度の人間が足を踏み入れる世界ではないと母は思っていたのでしょう。それでも私は本気でやろうと思い、挑戦することにしました。

母が行き着いた覚悟。「この子は地球にあげた子」

MSFの事務局職員の経験はあるとはいえ、海外の現場スタッフとして活動をするためには、また別の採用プロセスを踏まなくてはならない。2016年、思い切って挑戦し、選考に通過することができた。

麻衣子:待ちに待っていた初回派遣のオファーは7カ月任務のウクライナでした。出発前、母には「心配しないでね」ということだけは念を押しておきました。特にセキュリティのことは本当に心配させたくありませんでした。私が行った現場は実際に危険な場所ではなく、例え危険な場所だとしてもMSFのセキュリティ管理はしっかりしているので、その辺りをきちんと説明しておきました。

:送り出す時の不安は、それはありました。連絡は一切取れないと思っていましたし。ところが実際には現地からLINEでの連絡が本人から頻繁に来てとても安心しましたね。なんだか家で一緒にいる時よりも、むしろコミュニケーションが密になりました。

麻衣子:初回派遣のウクライナに行って、本当に一歩を踏み出して良かったと思いました。医療が必要とされているところに、それを届けるために自分が必要な人材でいるというやりがいを日々感じていました。何物にも代えられない、人道支援の喜びを感じることができたんです。ただ、当然ながら日本で仕事や生活をしている環境とは異なり、戸惑った事や大変だったこともありました。

:そういう事もね、この子は全て報告してくるんですよ。LINE電話の向こうで大変だ、辛い、って言って泣いているんです。私はそれを毎回聞いていました。でも現地で1人で我慢しているより、気持ちを正直にさらけ出してくれて逆に安心でしたよ。それで私はいつも伝えていました。「帰ってきたかったら全部放って帰ってきなさい」って。これは私の本心でもありましたけど、私には分かっていました、こう言えばこの子は頑張れるって。私は親ですからね。

人道援助の喜びを感じる事が
できた初回派遣のウクライナ(2017年撮影)

麻衣子:本当に、本当に頑張れました。母にはただ聞いてほしかったんです。そのおかげでついに7カ月の初回派遣を乗り切ることができ、今後もますますMSFの現場での活動を続けたくなりました。MSFは世界の70あまりの国と地域で活動をしています。それぞれの背景も異なり、たくさんの種類のプロジェクトがあります。たった1回行ったきりでは終わらせられない、と思いました。

:びっくりしましたよ、すごく逞しくなって帰ってきましたから。あの麻衣子にもできるんだって。まさかやり遂げるなんて思ってもいなかった。生き生きしていましたし輝いていましたね。それでこの時に思いました、「あ、この子はまた行くな」って。

ガザで一緒に働いた仲間(2019年撮影)

海外に行くなら絶対にリゾートで遊ぶ方がいい、とかつて言っていた麻衣子さん。人道援助をする喜びを知り、そのような思いはすでに吹き飛んでいた。母の方にも変化があった。世界を舞台に働く娘に刺激され、テレビの衛星放送で世界中のニュースを見ることが毎朝の習慣になったという。

:麻衣子から、次はパレスチナ・ガザ地区への派遣が決まった、と聞いた時には私はもうすでにガザで起きている事情は知っていました。普通の人はまず行けないところですよね。まさか麻衣子がそんなところに……。この時に私は思ったんです。「ああ、麻衣子は地球にあげた子と考えよう」って。そうすれば、自分のDNAがこの地球に役に立っているという素晴らしさや喜びを私も感じられる。心配や不安をくぐり抜けた先に行きついた思いです。

応援の気持ちと交錯する葛藤

:ガザからもよく連絡をくれていたのですが、ある日「ガザで空爆が始まった」という電話が来たんです。麻衣子は「大丈夫、大丈夫」と言っているのだけど、電話の向こうでは本当に衝撃音が聞こえてくるし、私は説明されても何にも理解できない。家で1人では聞いていられなくて、電話をしながらスーパーに駆け込んでしまいました。人込みにでも紛れていないと聞いていられなかった。1時間くらいずっと電話で繋がっていたと思います。自分からは絶対に切れなかった。この時ばかりは「なんでガザに行かせてしまったんだろう」と思いました。すぐに退避して次に安全な場所から連絡が来た時には本当に安心しました。帰国後、あんなことがあったので私の姿を見てきっと泣きついてくるかと思ったら、本人は明るくてそれはそれで拍子抜けしましたけど(笑)。

麻衣子にとって、ガザでの経験は世界で起きている不条理や非人道的な現実を改めてリアルに突き詰められるものとなった。ひるむことなどなく、ますます人道援助の意義を感じるようになっていく。このガザ派遣から6カ月後、今度はアフガニスタンの派遣のオファーを受けた。

麻衣子:アフガニスタンは本当に行きたいと思っていました。というのも、実はガザ派遣の前に一度アフガニスタン派遣のオファーがあったのですが、その時はビザが下りなくて出発がキャンセルになってしまった、という経緯があったんです。

:はじめは承諾しました。ガザでの空爆より悪いことはないだろうと。ところが、この子がビザ待ちをしている時に、ちょうどペシャワール会の医師の中村哲先生がお亡くなりになったというニュースが入ってきたんです。その時はもう「今回もこの子のビザが下りませんように」と祈りました。行ってほしくなかったですよ。ただ私には分かっていました、この子はそれでも行くだろうって。だったら、中村哲先生の意志の何万分の一かでも麻衣子が継いでくれるかな、とそういう気持ちに切り替えました。

2019年12月、アフガニスタンに出発。しかし現地では自爆テロなどによる治安悪化で道中の移動制限が非常に厳しかった。国内に到着はしたものの、すぐに活動現場には行くことができずにしばらく首都で足止めさせられることになる。

麻衣子:滞在していた場所から一歩も外に出られないというのが精神的に本当に辛かったです。結局しばらくしてから活動現場には移動できたのですが、今度は新型コロナの流行が始まってしまいました。どんどん周辺国の国境が閉鎖されてしまい、私はこの国から出られなくなってしまうのではないか、という恐怖が襲ってきました。

:今度もまた泣いていました(笑)。この時が一番辛かったのではないかと思います。「このまま帰国できないかも」ってあまりにも泣いているので、「じゃああなたは一生アフガニスタンにいなきゃいけないのね。私から遊びに行くから待っててね」とジョークを言っておきました。思いやりを込めたつもりです(笑)。なんだかだんだん私の方が精神的に強くなってきたみたい。

MSFの活動が家族の絆を強めた。「天国の主人も絶対に喜んでいます」

:結局のところ、親の方がいい勉強をさせてもらっています。普通ではなかなかできない人道支援の現場の話を直に聞ける機会なんて滅多にありません。人には違いがいろいろあるけれど、娘のおかげでその違いを受け入れることの大切さに目を向けられています。違いはあっても、人間はみんな一緒なんだということがすごくよく分かる。

麻衣子:日本では絶対に会えない現地の人たちと出会って仕事をする中で、一緒に悩んで泣いて一緒に笑える。それが本当に楽しい。そういう話をすると母もすごく喜んでくれるんです。

:亡くなった主人も天国で麻衣子のことを応援していると信じています。思えば、3姉妹の中で麻衣子が一番主人に性格が似ていますね。主人こそMSFの活動は心から賛成しているはずです。麻衣子の姉妹も変わりました。この2人も麻衣子がまさかMSFの活動をやり遂げるなんて思っていなかったはず。今では「すごいよ」って言っています。特に姉の方はこの子の派遣が決まる度に、その国に関する本やビデオを借りてくるようになりました。妹のパートナーまで巻き込んでみんなで一緒に勉強するようになり、家族の絆がなおさら強くなりました。

送り出したらあとは帰る場所を作っておくだけ。いつでも帰ってくればいい

:自分の子どもをMSFの活動現場に出すというのは、親としてはなかなか簡単な決断ではないかもしれません。周囲の人に、私の娘がMSFの海外現場で活動をしているのだと話すとまずびっくりされます。「よく行かせるわね」とか「娘さんかわいくないの?」なんて言われますよ。みんな世界の情勢は自分ごとではないし無理もないですね。でも何も知らないで心配をしたり、頭から反対をする前に、まずは世界情勢やMSFの活動のことをとことん知ることが大切だと思います。そして覚悟を決めて送り出したら、あとは親としては帰る場所をいつも作っておくだけです。

麻衣子:実は私は派遣に行く前に必ず家族に手紙を送るんです。その中で母には「いつも私が帰れる場所を作ってくれていてありがとう」と必ず書きます。帰る場所があるからこそ私も安心して行けるし、現地で頑張れる。母には本当にいつもありがとう、という気持ちでいます。

:次もどうぞ行ってください。応援していますから。

派遣先に向かう際に家族に送った手紙。
母洋子さんはすべての手紙を大切に保管していた

(本インタビューは2020年12月に、国境なき医師団日本事務局において行いました)

白根 麻衣子

大学卒業後、銀行にて個人営業に従事。退職後、日本とイギリスで修士課程修了。インターナショナルスクール勤務を経て、2016年、国境なき医師団日本事務局の人事・総務担当として入職。2017年より、アドミニストレーターとして海外現場での活動に参加。これまで、ウクライナ、パレスチナ・ガザ地区、アフガニスタンのプロジェクトで活動。

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