特集 シリア内戦10年 連載「それでも、未来を信じて」
第3話 奪われた命と生まれた命
- シリア入りを果たし、北部アレッポで国境なき医師団(MSF)のプロジェクトを始動させる村田。しかしそこでは、徐々に戦線が近づいていました……。
- 内戦下のシリアでMSFの活動を指揮した村田慎二郎が、困難と挑戦に立ち向かった体験をつづる全8回の連載です。
更新日:2021年11月30日

小麦畑とオリーブやピスタチオの木立が広がる、国境沿いの小さな村アルサラマ。シリア入りしてすぐ私たちは、そこにある廃校となった小学校を訪れました。地元の指導者たちに活動拠点について相談したところ、その学校を提供してくれることになったのです。病院にするには十分な建物と敷地でした。
のどかなこの場所を選んだ理由は、いくつかあります。安全面で言えば、トルコとの国境からわずか2キロの地点にあり、トルコ領空が近いため、空爆の可能性が低い。何かあったときには、トルコ側へ直ちに避難することもできます。それにもし、30キロほど離れた大都市アレッポで重症者が出た場合、隣国まで搬送せずとも患者を受け入れられるルート上にあったのです。
アルサラマ病院は2012年10月にオープン。およそ10万人いるアレッポ県北部の人たちへ幅広い医療を届けようと、紛争地でよくある外傷外科だけでなく、内科や産婦人科も設置し、予防接種のプログラムも立ち上げました。地域のニーズにマッチしたようで、近隣の30以上の村々から多くの患者さんが訪れ、スタッフは早々に大忙しとなりました。
年が明けて1月半ばの日曜日のことです。すぐ近くにある町の市場が、政府軍による空爆に遭いました。子ども連れの家族でにぎわう夕暮れ時に、ミサイルが2発も撃ち込まれたのです。死傷者は100人を上回りました。


1時間以内に、私たちの病院に到着した患者数は数十人。救急車がないので、一般市民が乗用車で次々と負傷者を運んできました。医療者でない私は、死体安置所の拡張を手伝っていると、また新たな患者を搬送する人たちがいました。彼らは担架を手術室へ運び込んだのに、すぐに出てきて、こちらへ向かってきました。
なぜかと聞いてみると「もう死んでいた」と言うのです。覆われた毛布の下には、爆撃で吹き飛ばされたのか、頭部のない女性がいました。既に亡くなっている人でも、「とにかく病院に運ばなければ」と思ったのでしょう。それぐらい誰もが混乱した状況だったのです。
夜通しの対応を終え、翌朝、私は茫然として床にへたり込んでいました。疲れもありましたが、それ以上に空爆が及ぼす被害の凄まじさに衝撃を受けていたからです。
その時、現地スタッフの一人が声を掛けてきました。
「この夜中に、分娩室で赤ちゃんが6人も産まれたんだ。シンジロー、この病院はすごく必要とされているよ」
多くの命が無残に奪われた一方で、その日の夜、新しい命も誕生していた──。いくつもの生と死が同時に起きていたことに、紛争地の病院が持つ使命のようなものを感じました。「確かにこの病院は必要とされている。できる限りのことをやろう」。心のなかでそうつぶやきながら、私は立ち上がりました。(つづく)
村田慎二郎(むらた・しんじろう)
大学時代は政治家を夢見ていた。静岡大学卒業後、外資系IT企業に就職。営業マンとして仕事のスキルを身につけると、「世界で一番困難な状況にある人のために働きたい」と会社を辞め、MSFに応募。最初の派遣が決まるまでの1年半は、大の苦手だった英語の勉強をしつつ、日雇バイトで食いつなぐ。
南スーダン、イエメン、イラクなどでロジスティシャンや活動責任者として10年ほどMSFの現場経験を積む。
シリアでは内戦ぼっ発の翌年2012年から2015年まで、延べ2年にわたり現地活動責任者を務める。この経験が大きな転機となり、米ハーバード大学大学院へ留学。2020年8月、人道援助への理解を日本社会でより広めるべく、日本人初のMSF日本事務局長に就任。1977年三重県生まれ。性格は粘り強く、逆境であればあるほど燃えるタイプ。
