Special Interviews

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ネパール地震の緊急援助では患者の外科治療に当たった久留宮隆医師(写真中央)=2015年撮影 © MSF

声を上げなければ、そこで起きている悲劇は伝わらない

私が国境なき医師団(MSF)で「声を上げる」ことの重要性とともにジレンマを感じたプロジェクトが、2009年に参加したスリランカの活動でした。スリランカ政府と反政府勢力「タミル・イーラム解放のトラ(LTTE)」による内戦が終結し、LTTEの支配地域に住んでいた約30万人のタミル人が国内避難民となりました。政府からテロリストの疑いをかけられた人びともいて、避難民キャンプという名のもと、軍と警察が監視する収容施設に閉じ込められていたのです。

MSFによるキャンプ内での活動は許されず、キャンプの外に病院を作りましたが、深刻なけがや病気でも来院には当局の許可が要りました。それでも病院には、「また踊れるようになるかしら」と将来を夢見ながら、切断のおそれのある下肢の骨髄炎と闘う女性ダンサーや、回診のたびに歌声を披露してくれる元歌手の腹膜炎の患者などがいました。

そんなある日、キャンプで発砲事件がありました。待機の末に現れたのは小さな女の子1人だけで、銃で背中を撃たれて下半身がまひする重傷でした。この時すでに情報が入ってから何時間も経っていました。

政治的圧力で、命を脅かす疾患やけがに対応できない。そんな状況を訴えるため、通常ならMSFは声明を発表しますが、スリランカ政府が過敏に反応し、それによって国外強制退去になる恐れがありました。真実を広く訴えなければ物事を変えることはできない。でも、真実を語ることで医療援助ができなくなると、命が救えない。結果、MSFは一時的に証言を控える苦渋の決断をしました。私の中でも、援助活動を中途半端に終わらせなければならないかもしれないという不安もあり、多くの感情が入り乱れていたのを覚えています。

今でも内戦が続くシリアで2013年に活動した際には、そこで暮らす人びとの追い詰められた状況を切実に感じました。当時、シリア北部ではアレッポや周辺都市で毎日のように空爆があり、夜になると遠くに爆撃の閃光(せんこう)が見えました。そうした中、同僚の手術室看護師長のお父さんも犠牲になってしまいました。

攻撃の対象は医療施設にまでおよび、MSFの病院があった町にも戦闘が迫りくる中、私たちは退避せざるをえませんでした。病院が攻撃されることは、そこにいる人が被害に遭うだけでなく、周辺で生活している大勢の人びとが医療を受けられなくなります。MSFの退避後、凍てつくような冬のシリアで患者さんや現地スタッフがどんな生活をし、どんな環境に耐えているのか、今でも当時を思い出し、つらくなります。

医療への攻撃は、今でも世界のさまざまな場所で続いています。MSFにできることは、声を上げること。目撃にしたものを人びとに伝えるのはMSFの使命であり、責任です。時にはとても難しい選択を迫られることもあり、すぐに何かが変わるわけでもないかもしれません。それでも、声を上げなければ、悲劇は世界に伝わらないのです。

photo© MSF

外科医/国境なき医師団日本 会長
久留宮 隆

三重大学医学部を卒業後、三重県を中心に地域中核病院での外科に勤務。2004年よりMSFの活動に参加、スリランカやシリア、ネパールなどで援助活動にあたる。2006年から2012年、および2017年からMSF日本理事、2018年よりMSF日本副会長を務める。2020 年3月より現職。

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