「撃ったのは金髪の女の人」——危険を知りながら少年はフェンスに近づいた

2018年04月26日掲載

国境なき医師団の病院で治療を受ける11歳のヤハヤくん。「帰還の行進」のデモに参加して撃たれた。
国境なき医師団の病院で治療を受ける11歳のヤハヤくん。「帰還の行進」のデモに参加して撃たれた。

手足を銃撃され、骨や腱、神経まで損傷してしまった人。銃弾で拳ほどの大きな傷を負った人。パレスチナ のガザ地区で、国境なき医師団(MSF)は2018年4月1日以降3週間のうちに、銃撃によって重傷を負った500人近い患者に術後ケアをした。

発端は2018年3月30日。パレスチナ人にとって「土地の日」のこの日、イスラエル建国により祖国を追われたパレスチナ難民の帰還を求める行進「帰還の行進」が始まった。ガザ保健省によると、わずか1日で1415人が負傷し、758人がイスラエル軍の銃撃を受けた。

患者の多くは若い男性だが、なかには女性や子どももいる。ほとんどが手足を銃撃されており、今後長く、身体的な障害を残すような重傷ばかりだ。患者が語るのは、自暴自棄とあきらめの気持ち。仕事もなく貧しい日々の中で、多くが危険を知りながらも、失うものはないという思いでイスラエルとの境界線に向かう。その日、何があったのか。3人の患者が話した。

「ガザがなぜ爆撃されるのか、知りたかった」

「撃った人の顔も覚えています」と語るヤハヤくん
「撃った人の顔も覚えています」と語るヤハヤくん

僕の名前はヤハヤです。11歳で5年生です。けがをする前は学校に行くのが大好きでした。100点満点中95点以下になったことはないです!

2人のお兄ちゃんと一緒に「帰還の行進」に行きました。お父さんとお母さんの土地を見つけたかったし、ガザを爆撃したりガザの人たちを銃撃したりしている人たちを自分の目で見てみたかったから。なぜなのかも知りたかった。イスラエル人が僕たちより強いのは、武器を持っているっていうだけのことです。

フェンスのすぐ近くで撃たれました。僕ぐらいの年であんなに近づいた子どもは他にいません。向こう側の景色が見たくて、近寄ったんです。すごくきれいでした。ガザよりもずっと!でもその時に撃たれたんです。撃った人の顔も覚えています。金髪の女の人でした。

弾が当たったのは足首で、めちゃくちゃ痛かったです。筋肉も腱も骨も。今もつま先しか動かせないし、動かせてもほんのちょっとです。撃たれた時は電気ショックみたいでした。でも今はよくなっています。最初に病院で手術を受けて、これからもう1回受けないといけません。それまで、ベイト・ラヒヤのMSF診療所に週3回通います。半年もすれば、きっとまた歩けるようになるって言われました。

まだ子どもなのに、とは思いません。けがの痛みも、悲しいのも我慢できます。僕は、撃たれてけがをした他のガザの人たちと一緒です。

自分はここにいる、そう示したかった

「帰還の行進」で最初に負傷した1人、ジャミールさん
「帰還の行進」で最初に負傷した1人、ジャミールさん

私の名前はジャミール。50歳で、アイスクリームの販売員です。妻と、娘が4人います。当然ですが、けがをして仕事に行けなくなってしまいました。いつ復帰できるかわかりません。

3月30日のデモに行きました。ガザの生活のうっぷんを晴らし、空気を変えたいと思ったんです。私はここにいるんだぞ、と誰かに示したい気持ちもありました。

特別に何かを期待していたわけではないのです。それに、私は積極的に抗議の声を上げていたともいえず、どちらかというと見物客でした。もちろん石など投げていませんし、叫んでもいません。赤の他人の集団に紛れて、分離壁から600メートルほどのところに立って、軽食を食べていました。

その時突然、脚に鋭い痛みを感じました。撃たれたんです。私は倒れ、周りの人が急いで救急車まで連れて行ってくれて、それから病院に搬送されました。大量に出血し、病院に到着したとき、ヘモグロビン値は3g/dl(※)でした。

血を止めるための手術を受けました。時刻は午前11時。私は「帰還の行進」で最初に負傷した1人で、すぐに手術が受けられたのは不幸中の幸いでした。動脈が切れてしまったのに命が助かったのは奇跡です。ただ、もう1回手術が必要で、それまでは歩くことも、脚を下ろすこともできません。

あれ以来、境界線には行っていません。身体が動かせないからですが、歩けたとしても、もう行かないと思います。行く人のことをとやかく言うつもりはありません。それなりの理由はあるのですから。でも、私は行けません。撃たれたときのことを思い出しながら過ごしています。ずっと考えているんです。どうしてこうなったのか?私はあいつらに撃たれるようことをしたのか?と。

  • ※通常は12~14g/dl

英雄として死ぬほうが今の生活よりずっといい

「残された希望は勝利のVサインだけ」と語るサナさん
「残された希望は勝利のVサインだけ」と語るサナさん

私の名前はサナ。30歳です。16人の家族と一緒に暮らしています。結婚はしておらず、母の家事を手伝っています。私にとって大切なのは、自分の国のための闘いと、ここにいる母で、何回もデモに参加して来ました。

ガザには希望も未来もありません。ここの人びとは貧しく、少しずつ死に向かっています。私自身も、ガザでの生活に絶望しています。

デモ行進に向かう時は、死ぬ覚悟でした。英雄として死ぬ方が、今のガザの生活よりずっとましです。自宅を出る前に、父にお金を渡しておきました。私の葬式の供え物を買うための費用です。それから、皆にお別れを言いました。帰宅は望まない。そう決心していました。

両親と兄弟からは、デモには行かないように、分離壁に近づかないようにと言われていましたが、友人2人とこっそり行きました。母は後を追ってきたのですが、人ごみで私を見つけられなかったそうです。

友人も私も撃たれ、けがをしました。私は両脚にそれぞれ1発ずつ。助け起こして救急車に乗せてくれた人も狙われて、けがをしました。

そのデモの後、家族は私が無事なのか、けがをしたのか、死んだのかもわかりませんでした。私の居場所を突き止めるまで、ガザの南部の病院を4時間も探し回ったそうです。

けがのせいで家族に迷惑をかけています。私は手足の切断も、骨への影響もないので、父は負傷者の協会から見舞金を断られました。私が守ろうとした国の指導者から見捨てられた気分です。

傷が治ってまたデモに行くのが待ちきれません。母は私を引き留めようとします。母親ですから、当然でしょう。でも次こそ死ぬ覚悟です。勝利のVサインが、私に残された最後の希望です。

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