パレスチナ:任務終了の前日、ガザに空爆が——MSF初参加の看護師

2014年07月22日掲載

集中治療室で同僚と打ち合わせをするMSFのサラ・ウォズニック看護師(左) 集中治療室で同僚と打ち合わせをする
MSFのサラ・ウォズニック看護師(左)

国境なき医師団(MSF)のサラ・ウォズニック看護師は、集中治療の専門家だ。低い声、黒い髪、茶色の瞳。病室から病室への移動は速足だ。自ら望んでのことか、毎日多忙にしている。ウォズニック看護師は米国のコロラド州デンバー出身で、MSFの活動は今回が初めて。半年前にパレスチナのガザ地区に着任し、「明日が最終日」だった2014年7月7日、イスラエル軍の「境界防衛」作戦が開始された。

非常に厳しい状況だということを踏まえた上で、彼女はガザに残り、MSFの一員として最善を尽くす決意をした。多忙を極める活動の合間を縫って、ウォズニック看護師が心境を語った。

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ここが"ガザ"だということ

ナセル病院の正面口(2013年撮影) ナセル病院の正面口(2013年撮影)

MSFの初の任務でガザに赴任することを心待ちにしていました。私の専門分野が現地の活動プログラムに有意義だったからという理由のほかに、現状を自分の目で確認できるよい機会だと思ったからです。

現地で私が出会ったのは、本当に温かい人の輪でした。大いに歓迎されました。一方、ガザ地区の"矛盾"が印象的でした。生活上の最低限のものごとにも不足が多いのに、浜辺に高級ホテルなど予想外のものが建っていたりするのです。

勤務地のナセル病院の集中治療室では、手袋など基本的な医療物資が不足していることを知りました。このような消耗品は、米国内であれば、節約したり、使わずに済ませたりすることはないでしょう。現状を直視した最初の出来事でした。パレスチナ人の看護師長は常々、こう言っていました。「ここがガザだということを忘れないでください。物資の不足は日常茶飯事です」。ガザは決して低開発地域ではないのに!

目に見えぬ重圧とストレス

モニターをチェックしながら救急患者の治療を行うMSFスタッフたち モニターをチェックしながら救急患者の
治療を行うMSFスタッフたち

イスラエルによるガザ封鎖の影響で地区外に出ることが非常に難しいため、同僚は皆、最新の知識を得たり、研修を受けたりすることができません。そこで、MSFが現地に赴いて指導・研修をしています。

ナセル病院のスタッフは非常に困難な状況のもとで勤務しています。病院職員の多くは、何ヵ月も給与を支払われていないか、一部を不定期に受け取っているに過ぎません。それでも、離職はしないのです。皆、自身が辞めればすぐに後任が見つかるとわかっています。部分的な給与支払いでも無職よりはましです。そういう境遇ですが、ほとんどの職員は本当に献身的に患者に対応しています。

ある時、集中治療室のスタッフ同士が激しい口論を始めました。口論の当事者は私にこう言いました。「いろいろと大変なんですよ」。私自身も、ある医師の農園に招かれたことで、却って重圧の中にいることを実感しました。農園で深く息をついた時、しばらく気を抜けずにいたことに気づいたのです。

ガザは非常に都会的で、人口密度の高い場所です。そこを離れてみなければ、封鎖された環境で生活することの影響を実感できません。しかし、住民の多くには"離れる"という選択肢もないのです。

同僚の自宅も戦闘地域に

ガザでの任務を終え、出発する日の前日、イスラエル軍が「境界防衛」作戦を開始しました。初日から何回も空爆がありました。自分のいる場所からそれほど遠くない場所が爆撃されている。奇妙な感覚でした。MSFが標的ではないので、自分自身に危険はないということを頭ではわかっています。でも、身体はそうではなく、大量のアドレナリンが分泌され、心臓は早鐘を打ち、厳戒態勢に入るのです。

今は多少慣れましたが、それでもやはり震え上がることがあります。雷雨と似たようなものだとは思えません!MSFの外国人スタッフは皆、パレスチナ人の同僚の安否が気になっています。MSFの宿舎は安全な地域にありますが、すべてのパレスチナ人同僚の自宅が安全な地域にあるとは限らないからです。

交戦が始まった今、私の役割は、術後ケア施設の運営と、各病院に寄贈する緊急用薬剤の備蓄の補佐です。術後ケア施設には、近くに住む理学療法士、看護師、入院受付担当者各1名で構成される少数精鋭のチームが通勤していました。徒歩通勤を避けるために、MSFの車両で自宅と病院の間を送迎しています。私の役割はそうした活動の監督でした。

爆撃から逃れるために……

空爆が激しくて術後ケア施設が開院できない日は、MSFのオフィスにやって来る患者もいます。そんな時は私が包帯の交換を行いました。難しいのは、状況が理解できず、何をされるのかといぶかしげにこちらを見つめる幼い子どもたちです。戦闘開始後に対応した新規患者の約40%が5歳以下でした。

ある5歳の女の子は、熱湯で背中一面にやけどを負っていました。爆撃から逃げる際に熱湯に飛び込んでしまったのです。泣き叫ぶ女の子をなだめる両親と、女の子のおびえた表情が忘れられません。残念なことに、その一家は治療後、経過観察を受けに来ていません。女の子の状況が気がかりです。

10歳か11歳の女の子のことも思い出されます。自宅で腕に熱いお茶がかかり、やけどしたため、1人で来院しました。MSFのプログラム責任者のニコラス・パラルスが「1人で道を歩いてきたの?怖くなかった?」と声をかけると、「みんな、いつかは死ぬから」と。実年齢よりもずっと大人にならざるを得ないのだと思いました。

あるパレスチナ人の同僚の子どもたちは、爆音が聞こえるとすぐにテーブルの下に隠れるとそうです。一方、別の同僚は「私のそばなら安全だと思うのか、子どもたちがみんなしがみついてくるんです。でも、安全なはずがないでしょう」と話していました。子どもを守れないのは、親として非常につらいことに違いありません。

この体験を多くの人に伝えたい

任務から帰還したら、ガザでの体験を人びとに伝えようと思います。米国ではこの紛争の複雑さが必ずしも理解されていません。現地は離れがたく、人びとのことも毎日思い出されることでしょう。今回の緊急事態を脱しても、さまざまな面で不自由な生活をしている友人たちのことが、ずっと気にかかると思います。壁に囲まれていなければ、選択の自由も望めるのでしょうが……。

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