私の夢はもうない ヨーロッパにたどり着いたとき、それは消え去った

2018年07月25日

家族を残し、暴行を逃れてメキシコへ 長身のダンサーはもう故郷に帰れない

コンゴ共和国出身のダンサー、シベルさんコンゴ共和国出身のダンサー、シベルさん

高い身長、ダンサー特有の体つき、漆黒の肌。
シベルさん(26歳)は一見して、すぐ際立つ存在だ。だが、彼をさいなむものがある。

孤独だ。

コンゴ共和国出身。政権に対するデモ活動に参加したことがきっかけで軍に逮捕された。暴行を受け、命からがら逃げ出し、いまメキシコの首都メキシコ・シティに住む。だが6歳の息子を含む家族は、首都ブラザビルに残したままだ。いつ故郷に戻れるのか分からない。過去に受けた拷問のせいで、自殺も頭に浮かんでしまう。国境なき医師団(MSF)が運営する「総合ケアセンター(CAI)」で、その体験を語ってくれた。拷問や虐待の被害者を治療するセンターだ。

シベルさんは2015年10月、デモに参加。30年以上政界を支配してきたサス・ンゲソ大統領が、自らがずっと権力にとどまれるようにする改憲案を示しており、これに反対した。だが、武器を持った治安部隊に制圧され、シベルさんも負傷した。

「無差別に発砲されました。子どもや女性も混じっていたのに。友人を助けに向かうところで、脇腹を撃たれました」
逮捕され、軍刑務所に収監された。そこで、何ヵ月にもわたって、ひどい拷問を受けた。

「あいつらは夜中に収監者を連れ出すんです。毎日殴打されて…。腕が骨折し、傷口が膿んで、頭も腫れて、死ぬと思いました」

助かったのは、ただ運が良かったから。刑務所を管轄する将官の一人と家族ぐるみの付き合いがあり、逃亡を手助けしてくれた。

「『死んだふりをしろ』と言われました。『そうすれば救急車で外に運び出され、適当な場所で誰かが迎えに来るから』と。私は、けがと痛みとで話もできませんでした。それでも実行に移しました。救急車に乗って30分、タクシー脇に降ろされると、そこに姉が待っていたのです。漁師の助けを借り、姉と2人で隣国コンゴ民主共和国の首都キンシャサに渡りました。市内の病院に1カ月入院しました」

キンシャサでは、ダンスを通じて知り合った人たちがおり、現地のダンスチームに入団。家族に会うため母国に戻ろうともしたが、知人から警察が捜索していると警告され、断念した。両親から、罰則の名目で実家にまで踏み込まれたと聞き、当分は帰国できないと悟った。

ダンスに専念し、チームとともに海外公演にも赴いた。ただ、どれほど遠くに離れても、いつも過去の体験の記憶が付きまとった。海外公演のブラジル滞在中に、母国と外交関係のある国には戻らないと決め、すぐにチケットの取れた飛行機に乗った。行き先は、メキシコだった。

苦しみを抱えて

 だが、苦労は終わらなかった。

「メキシコの空港に着いて、途方に暮れてしまいました。スペイン語は一言もわかりません。食事も食べられずに2日過ごしたところで、ハイチ人の男性に助けられたんです。彼が警察を呼んでくれて、シェルターに連れて行ってくれました。体調が悪く、死ぬことが頭に浮かんで食事もできませんでした。そうこうするうちに、MSFが助けてくれたんです」

MSF総合ケアセンター(CIA)に着いたころのシベルさんは、不眠、恐怖、不安、抑うつにさいなまれ、それに端を発する慢性的な頭痛や拒食症など、さまざまな症状も抱えていた。
日常生活では、難民申請手続きの複雑さに加え、周囲との言語の壁にも苦しんだ。次第に、重いうつ症状を示し、自殺を考えるようになっていった。

CAIの医師と心理療法士から治療を受けた。ソーシャルワーカーも助けてくれた。心的外傷の専門家も紹介してもらった。日常生活への手助けとして、CAIスタッフはメキシコの社会状況などを説明し、雇用も後押ししてくれた。センターでは、母国の暴力を逃れて来た中央アメリカ出身の患者と生活をともにした。

次第に体力を取り戻したシベルさん。溶接作業の勉強も始め、希望を持てるまでに回復した。

体験を語るシベルさんは、母語のフランス語で話せることをかみしめながら、ゆっくりと話してくれた。そして今、フランス語が通じるカナダで受け入れてもらえないかと期待している。

妻と子も奪われ 塩素かけられ暴行 夢失った男性の独白

シリア内戦での体験などを振り返るラフマンさん(仮名)シリア内戦での体験などを振り返るラフマンさん(仮名)

シリア内戦が始まる前は法律の仕事に就いていたアブドゥル・ラフマンさん(仮名)。政府と過激派組織「イスラム国」の両方に拘束され、拷問を受け、その後、母国を脱出した。アテネに建つ拷問被害者のためのMSF施設で、体験を振り返る。

「アレッポ大法学部を2009年に卒業しました。その後2年間、法律実務に携わりました。戦争が始まった後に結婚し、子どもを2人もうけました。家族のある人なら誰でも送っているような平凡な暮らしをしていました。
そこに、皆の生活を崩壊させる一連の出来事が起きたのです。多くを失いました。妻も2人の子も亡くし、自らもけがを負いました。その後、2度拘束されました。

最初は最悪でした。2メートル四方の房に60人ほどが収監されました。私たちはたびたび腕と脚を吊り上げられ、ずり落ちないように体の下を何かで支えられた体勢で、脚に塩素をかけられたり、針で刺されたりしました。

釈放された私の希望はギリシャに落ち延び、そこで安息の地を見つけることでした。治療が受けられるという期待を抱きながらの旅、失ったものを少しでも取り戻すための旅でした。

たどり着いたのですが、それでも、そこで自分がおぼれているような感覚に陥りました。

ヨーロッパの国なら、私にも権利が認められるはずだと思っていたのです。でも、その片鱗さえありません。私の心の健康状態が悪くとも、全く気にも留めてもらえません。私たちはここでは書類上の存在に過ぎないのでしょう。必要書類が整えばギリシャを出国できますが、それまでは誰からも取り合ってもらえません。

こうして生きていられるのは、国境なき医師団(MSF)のおかげです。患者であるかどうかに関係なく親切にしてくれました。人生で一番大切な、家族を失ったということで、特別に配慮して治療をしてくれます。

MSFは生きる意欲を与えてくれました。大変な境遇を跳ね返す助けとなってくれました。MSFのお陰で再認識できたことがあります。

『私は人間だ。私にも権利がある』

ただ、私に夢はもうありません。ヨーロッパにたどり着いたとき、それは消え去りました」。

MSFの暴行被害者への支援概要

MSFはこれまでも、紛争や飢餓などを抱えるアフリカや中東からの逃れてきた避難者を援助してきた。自国で虐待や暴力、迫害などを受けた被害者も多くおり、ヨーロッパや南米などに専門施設を設けて援助している施設は、被害者の多くが自国からの避難ルートとして通過する地域を中心に、アテネ、メキシコ・シティー、ローマなどに設置。被害者が心的外傷後ストレス障害(PTSD)を抱える場合もあり、医師や看護師らによる専門的な医療支援、心のケアなどにも対応。リハビリに必要な安全な場所を提供している。

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