【連載】それでも、未来を信じて〈6〉「若きシリア人外科医の悲劇」

2021年07月02日掲載

戦禍のシリアで、国境なき医師団(MSF)の活動を指揮した村田慎二郎が、その体験をつづる連載。

アレッポ県にあるMSFアルサラマ病院では、スタッフの身に危険が迫っていました。そして村田にとっても、活動経験において最も悔いを残すことになる事件が起きます。

MSF病院があるシリア北部、アルサラマ村の通り © MSFMSF病院があるシリア北部、アルサラマ村の通り © MSF


紛争地で援助活動を率いる者が、突然メンバー全員を招集するとき、それが良いニュースであることはほぼありません。その夜、私は悪夢のような知らせ──仲間の死──をアルサラマ病院のプロジェクトチームに伝えなければなりませんでした。

ムハンマド・アブヤド医師は、まだ28歳の若さで、優秀な外科医でした。

大都市アレッポで育ち、その街では主流の“世俗派”だった彼は、イスラム原理主義者への批判もはばからない若者でした。

けれども2013年半ばの当時、原理主義グループは徐々にその存在が知られるようになり、アレッポでも跋扈(ばっこ)し始めていました。これらの組織は、やがて外国人ジャーナリストを誘拐するようにもなります。

そのように国内の勢力図が水面下で変化しつつあった時期、現地のイマーム(宗教指導者)からアブヤド医師に、“死刑”の「ファトワー」が出されました。ファトワーとは、イスラムの宗教的な勧告のこと。彼がSNSなどで自由に原理主義者批判を行っていたため、制裁を加えようというのです。

警戒した私は、ファトワー撤回の交渉を行うよう部下に指示し、その間、アブヤド医師を隣国トルコのプロジェクトへ異動させました。交渉はうまくいき、ファトワーが撤回されたのですが、リスクは残ります。現場チームは「お願いだから彼をクビにしないで」と強く訴えましたが、このあと彼の処遇をどうすべきか、私はためらっていました。迷いましたが、もう二度とSNSや公の場で以前のようなコメントはしない、という約束をさせた上で、彼を元のポジションへ戻すことにしました。

アルサラマ病院の病室で患者の様子を見るスタッフ © MSFアルサラマ病院の病室で患者の様子を見るスタッフ © MSF

2カ月ほど過ぎて、事件は起こりました。夜中に武装した4、5人の男たちが押し入り、当直室で仮眠をとっていたアブヤド医師を拉致したのです。部屋には他にも数人のスタッフがいましたが、彼だけが連れ去られました。

遺体が発見されたのは、わずか数日後のことです。捜索に出ていたスタッフが、病院から10キロほど離れた道端で、顔の見分けもつかぬほど傷で覆われた彼を見つけました。犯行声明は出ておらず、解放のために交渉する機会さえありませんでした。

あまりの展開の早さにスタッフは誰もが言葉を失い、泣き崩れる人もいました。彼をアルサラマ病院に引き留めようとしたチームにとって、悲しみとショックがひときわ大きかったことは痛いほど伝わってきました。

故郷の街が過激な思想に染まることに抵抗し、言動で示したがゆえに、命を奪われることとなったアブヤド医師。現地活動の責任者であった私は、一歩先に起こりうることを予測し、より強い対策をとるべきだったと、いまも後悔の念が拭えません。

アルサラマ病院の近郊にある避難民キャンプ。こうした反体制派の地域では、政府による迫害が続いている=2016年 © Mahmoud Abdel-rahman/MSFアルサラマ病院の近郊にある避難民キャンプ。こうした反体制派の地域では、政府による迫害が続いている=2016年 © Mahmoud Abdel-rahman/MSF

村田慎二郎(むらた・しんじろう)

大学時代は政治家を夢見ていた。静岡大学卒業後、外資系IT企業に就職。営業マンとして仕事のスキルを身につけると、「世界で一番困難な状況にある人のために働きたい」と会社を辞め、MSFに応募。最初の派遣が決まるまでの1年半は、大の苦手だった英語の勉強をしつつ、日雇バイトで食いつなぐ。

南スーダン、イエメン、イラクなどでロジスティシャンや活動責任者として10年ほどMSFの現場経験を積む。

シリアでは内戦がぼっ発した翌年の2012年から2015年まで、現地活動責任者として延べ2年にわたり派遣される。この時の経験が大きな転機となり、後に米国ハーバード大学への留学を決意。大学院修了後、日本社会での人道援助への理解を広める活動に力を入れるべく、2020年8月、日本人初のMSF日本事務局長に就任。

1977年三重県生まれ。性格は粘り強く、逆境であればあるほど燃えるタイプ。

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