「日本に人道主義を根付かせる」、「日本からMSFの医療関係者を送り出す」の2つを目的に、ドミニク・レギュイエがMSFの日本事務局を設立。当時のオフィスはとても狭く、ダンボールの上に板を置いて会議テーブルにしていた。
その後の成長をグラフで見る
ソマリア: 内戦と飢餓により、壊滅的な被害がもたらされる。国境なき医師団(MSF)は活動の規模を拡大するとともに、国際社会が事態に関心を向けることを訴える。
ボスニア・ヘルツェゴビナ: イスラム系の住民に対して行われている「民族浄化」を告発する報告書を発表する。
ソマリア: 国連平和維持軍の介入方法が人道的原則に反していることを告発。スタッフの安全を確保することができなくなったため、ソマリア国内での活動を停止する。
ブルンジ: クーデター後に虐殺が続き、多数の難民・避難民が発生。数週間の内に180人のスタッフによるMSFチームが、ルワンダ、タンザニアに逃れた60万人およびブルンジ国内で避難している人びとへの緊急援助活動を展開する。
ナンセン難民賞受賞: 難民への援助活動が評価され、国連難民高等弁務官事務所 (UNHCR)より、ナンセン難民賞を受賞する。
京都出身の貫戸朋子が、日本で初めて国境なき医師団の登録医となる。彼女は産婦人科医師としてスリランカ・マドゥーに派遣され、難民キャンプの医療活動に従事。2003年には、MSF日本のプログラムディレクターとしても抜擢された。
ルワンダ: 4月6日、ツチ族およびフツ族穏健派の大虐殺が始まり、数週間で50万人から100万人が犠牲になる。MSFはその歴史上で初めて、国際的な軍事介入を求める。ザイール、タンザニアの難民キャンプで援助活動を行うが、キャンプが虐殺の首謀者によって支配されている事態を重く見て、12月には活動を停止する。
ボスニア・ヘルツェゴビナ: 7月、国連の保護下におかれていたスレブレニツァがセルビア人勢力の攻撃を受け、7000人が虐殺される。MSFは現場を目撃した唯一の証言者となる。
北朝鮮: 洪水の被害を受け、北朝鮮政府はその歴史上初めて、国際社会に支援を要請する。MSFは被災地で援助活動を開始し、それを機に保健センターや病院への医療物資提供も開始するが、独立した活動が認められなかったため、1998年に撤退する。
当時の活動総括責任者エルベ・イザンベールの率いる医療チームが、阪神・淡路大震災の救助活動に参加。水や毛布などの物資、無料診療所での診察および医薬品の提供を行う。結果的に、日本におけるMSFの認知につながった。
チェチェン: ロシアとの紛争が続くチェチェン国内、および周辺国の難民キャンプで援助活動を行う。
ナイジェリア: 20世紀最大規模の髄膜炎の流行に対し、300万人に予防接種を実施する。
ザイール(現コンゴ民主共和国): ルワンダ人の難民キャンプが襲撃を受け、80万人がルワンダに戻る。一方で、森の奥深くへと逃げる人も数十万人にのぼり、援助活動には大きな困難がともなった。
コンゴ民主共和国(旧ザイール): MSFはルワンダ難民への援助を試みるが、多数の難民が虐殺や病気により命を落とす。MSFは、ルワンダ難民に対する人権侵害の状況を告発する報告書を発表する。
アフガニスタン: タリバン政権は、カブールの病院で女性が医療を受けることを禁止する。MSFは、この差別的な保健政策を非難する声明を発表する。
12月9日、MSF日本として初の総会を開催。当時は評議員会の名称であった。定款の確認が行われたほか、MSF日本の新しい呼称について討議。「国境なき医師団日本( Médecins Sans Frontières Japon)」が正式名称となった。世界19ヵ国にあるMSF事務局のひとつとして、日本事務局が独立組織となった記念すべき年である。
初の総会開催後に続いて、MSF日本初の理事会が開催された。会長は渡辺昌俊、副会長は寺田朗子とフィリア・ビベルソン、専務理事ドミニク・レギュイエ、財務ベルナール・ぺクールの合計5人が役員として務めた。
シエラレオネ: シエラレオネ政府軍と西アフリカ諸国経済共同体による軍隊とのあいだで戦闘が生じ、MSFは負傷者を治療する。5月には、北東部のコノ地方で住民に対して行われていた、四肢切断などの残虐行為を告発する報告書を発表する。
コソボ: アルバニア、マケドニア、モンテネグロなどに逃れたコソボ難民への援助活動を行う。停戦後は、帰還した難民が厳しい冬を越せるよう、住宅の再建プログラムを始める。
東ティモール: 分離・独立を問う8月の国民投票後、独立反対派による住民の虐殺が始まり、MSFも撤退を余儀なくされる。9月29日には現地に戻り、避難先から帰還した人びとへの医療提供を始める。
必須医薬品キャンペーン: 本来治療が可能な感染症で毎年数百万人が命を落としていく事態を前に、すべての人びとが必要な治療薬を手に入れられるようにすることを目的とする「必須医薬品キャンペーン」を開始する。
日本: MSF日本事務局が特定非営利活動法人(NPO法人)となる。
28年間におよぶ人道援助活動が評価され、MSFがノーベル平和賞を受賞。記念スピーチを行ったジェイムズ・オルビンスキ会長(当時)は、賞金の約1億円をもとに、必須医療薬品キャンペーン(Access Campaign)を開始すると宣言。
チェチェン: グルジア(現ジョージア)やイングーシに避難したチェチェン難民への援助活動を行う。戦闘が続くチェチェン国内では、医薬品や医療物資などを首都グロズヌイの医療施設に提供する。
パレスチナ: 第2次インティファーダが始まり、医療援助の需要が増す。MSFは心理ケアの提供をヨルダン川西岸地区とガザ地区で開始する。
インド: 1月、グジャラート州で大規模な地震が発生する。MSFは70以上の村々を回って、テントや毛布などの物資、飲料水の提供を行う。
HIV/エイズ: 抗レトロウイルス薬(ARV)によるエイズ患者の治療をマラウイ、タイ、南アフリカなど8ヵ国で開始する。
アンゴラ: 27年間続いた内戦が終結し、かつての戦闘地域を中心に50万人が飢えにさらされていることが判明。200人を超す海外派遣スタッフと2000人を超す現地スタッフが、40ヵ所に栄養治療センターを開設して治療にあたった。
コンゴ民主共和国: 1998年から2000年にかけての内戦以来、女性や少女に対する性的暴力がまん延する。MSFは被害者の治療、心理ケア、社会・経済的支援を行う。
コロンビア: 紛争、暴力、経済危機などにより、人びとが医療を受けることはますます困難になる。MSFは国内避難民や貧しい人びとが暮らす地域で医療援助を提供する。
海外派遣前の研修「Welcome Days」の第1回目が実施され、人材募集から派遣に至る人事の枠組みが完成した。採用基準を満たした国内外からの応募者に対し、必要なトレーニングを行うことで、世界中のフィールドで活躍できる人材の育成・派遣が可能になる。
イラク: バグダッドが米英軍の攻撃を受ける間もMSFのスタッフは現地に留まり、病院の支援活動を続ける。
リベリア: 首都モンロビアでの激しい市街戦の間、MSFは負傷者の治療を続ける。
アフガニスタン: 6月2日、バドギス州でMSFのスタッフ5人が襲撃を受け、殺害される。MSFはアフガニスタンでの24年間の活動に終止符を打ち、撤退することを決定する。
スーダン: ダルフール地方で内戦が続き、およそ180万人が国の内外で避難生活を強いられる。MSFは同地方および隣国チャドで医療援助を展開するとともに、一般市民に対する激しい暴力、国際的な人道援助の不足などの事実を強く訴える。
MSFの組織におけるオペレーション運営分権化の一環として設置。パリのオペレーション・センターとともに活動内容・運営・人事・財務などを決定。東京デスク設置によって、MSF日本は医療・人道援助活動の実際のオペレーションをより理解することになった。
9月中旬から東京、札幌、大阪、福岡、横浜で、約1ヶ月にわたり「MSF難民キャンプ展」を開催。実際に難民キャンプで使用されているテント・医療器具等を用い、難民がおかれている状況を理解し、考えるための体験型屋外イベントとして話題に。日本国内の意識啓発としてのマイルストーンにもなった。
アジア: インドネシア・スマトラ島沖で発生した地震に続き、インド洋沿岸諸国を津波が襲う。MSFは緊急調査に続き、スマトラ島北部とスリランカの沿岸部を中心に医薬品と医療物資の提供、心理ケア、水・衛生環境の整備などを開始する。1月末までに200人以上のスタッフ、2000トンの物資が送られる。
ニジェール: 前年から懸念されていた食糧不足で、大規模な飢餓が発生。国内各地に50を越える治療施設を新設し、2005年だけで6万人以上の栄養失調児の治療を行う。また国際社会にも訴え、危機への対応を促す。
パキスタン: 10月20日、パキスタン北部カシミール地方で大地震が発生。倒壊した病院を支援して、数多くの負傷者の治療を行う。また家を失った人びと、交通が寸断され孤立した地域の住民への大規模な援助物資・医療の提供を行う。
支援者からの信頼獲得と適切な財政運営のために、アマチュア精神に基づく資金調達戦略から一転、他の事務局からの助言も取り入れ、資金調達とコミュニケーションの専門家を採用するなどし、よりプロフェッショナルな資金調達の仕組みを導入した。
全国のホームレスの半数が住むと言われた大阪で、不安定な生活により医療へのアクセスが困難な人びとの社会復帰を支援するための調査や移動診療を実施。1年余りの活動を通して約270人、のべ1200件を上回る内科診療を行った。
世界各地で活動するNPO/NGOが集まる地球市民村にて、「MSF難民キャンプ展」を開催。実際に使われたテント、給水所、診療所などを展示し、来場者からは「難民が置かれている状況がよくわかった」という声が聞かれた。
MSFの「基本的存在理由(レゾンデートル)」、「役割と限界」、「管理方法」を明確にするための議論が1年以上にわたり続けられ、「ラ・マンチャ会議」で最終的な合意に至った。世界中のMSF事務局から意見が集まった初の機会となり、MSF日本からも積極的な参加が行われた。MSFのポリシーの再認識や、これからの方向性が確認されたとともに、「外部からの刺激や内部の変化」に対応する重要性を考える契機ともなった。
アンゴラ: 大規模なコレラの流行に対応。首都から各地へと活動を拡大しながら、MSFは400トンの物資を提供し、約2万6000人の感染者を治療する。
インド: スイスの製薬会社ノバルティス社がインド政府を相手取り、同国特許法について異議を申し立てる。インドは安価なジェネリック薬の主要生産国であり、MSFは訴訟の取り下げを求める運動を国際的に展開する。(2013年にノバルティス社の訴えはすべて棄却される)。
ソマリア: 内戦が激化するソマリアで、避難民への医療援助活動を国内各地で継続しつつ、首都モガディシュで外科治療プログラムを開始。
チャド: 政府と反政府勢力との紛争が長期化し、15万人以上が避難民となる。MSFはチャドでの活動を強化するとともに、大規模な人道援助の必要性を国際社会に訴える。
ミャンマー: サイクロン「ナルギス」がミャンマー南部を通過し、14万人の死者・行方不明者という甚大な被害をもたらす。MSFは基礎医療、水・衛生管理、栄養治療、心理ケアを提供する。
ジンバブエ: 大規模なコレラの流行に対応。10ヵ月で6万5000人を超える患者を治療すると同時に、公的医療機関の後方支援を行う。
この年、MSF日本の個人支援数が10万人を突破(最終的には119,193人)。さらに4,205もの企業・団体の支援を受け、総寄付収入額は前年比で9億2400万円(40%)増の32億3000万円となり、初めて30億円を超えた。
公共広告機構(AC)による広告支援キャンペーンの対象となる。2008年「包帯は国境を越えていく。」、2009-2010年「国の境目が生死の境目であってはならない。」をメッセージに、テレビ、ラジオ、新聞、駅貼りポスター、電車中吊りなどで広告が掲出される。MSFの活動が全国的に知られるようになった。
アジアの基盤を強化・確立すべく、MSF日本とMSFスイスは韓国に共同出資することを決定。MSF韓国としては2012年に設立し、韓国国内で、人道医療問題や医療援助に関する人びとの意識向上を促しながら、その後資金調達活動も開始。
初代事務局長。
2012年〜2015年6月
現事務局長。
2015年7月〜現在
MSF韓国初の派遣者。2004年に看護師としてシエラレオネへ派遣された。
アソシエーション活動の広がりや質の向上のニーズを受け、MSF日本でも常勤のアソシエーション・コーディネーターを初めて雇用した。最初のコーディネーターは、イタリア人のナディア・クレッシェンテ。
2012年6月〜2014年2月
2014年8月〜2015年12月
2016年1月〜現在
パレスチナ: イスラエル軍がパレスチナのガザ地区に侵攻。1月18日に停戦協定が結ばれるまでの約20日間で1300人が死亡、5300人が負傷。侵攻前から現地で活動するMSFは、負傷者の治療や市民への心理ケアを提供。
ハイチ: マグニチュード7.0の地震によってハイチの首都ポルトープランスが壊滅的な被害を受ける。MSFはハイチでの活動を大幅に拡大し、外科治療、物資配布を含む緊急医療援助を展開。また、コレラ治療センターを50ヵ所以上開設し、約10万人の患者を治療するともに、コレラ啓発活動も行う。
パキスタン: 大規模な洪水が発生。MSFは、同国での活動を拡大し、約8万人の被災者の治療にあたるとともに、救援物資の配布も行う。
コートジボワール: 大統領選の結果をめぐる紛争が内戦に発展したコートジボワールで、戦闘に巻き込まれた住民に医療援助を提供。国境を越えてリベリア側へ避難した人びとへの援助も実施する。
リビア: リビア政府と反政府勢力との間で武力闘争が勃発し、MSFは外科治療、心理ケアを含む医療援助を実施する。また、イタリアやチュニジアへ逃れた難民へも援助を提供。
国境なき医師団が創設から40周年を迎える。
3月11日の大震災翌日から、医療の届いていない地域で緊急医療援助活動を開始。オペレーションを担う東京デスクとMSF日本事務局が協業し、医療、心理ケア、物資や通院用バスの提供、仮設住宅と医療施設の建設支援を行った。
シリア: 内戦状態のシリアで、MSFは政府が病院を監視下に置き、反体制デモの負傷者と、その負傷者を治療しようとする医療従事者を厳しく弾圧していると証言。6月には政府からの活動認可を得られぬまま、北部イドリブ県で仮設病院設置に踏み切る。
日本: 国境なき医師団日本が創設から20周年を迎える。
フィリピン: 過去最大級の台風が上陸。レイテ島、サマール島、パナイ島を中心に甚大な被害をもたらした。MSFは日本を含む世界各地から現地へスタッフを派遣し、各島に仮設病院を設置。また、フィリピン緊急援助のための寄付を呼び掛けた。
ソマリア: 国内での活動を8月で終了。1991年から22年にわたって活動してきたが、その間に16人ものスタッフが殺害された。また、ソマリア人難民キャンプで活動中の海外派遣スタッフ2人が拉致される事件も起き(2013年に解放)、活動の継続が非常に困難だと判断した。
スマートフォンやタブレット端末の普及、SNSの興隆など情報環境の変化に対応するため、MSF日本公式ウェブサイトを10月にリニューアル。サイト訪問者数は前年度比で1.5倍増となり、11月には公式フェイスブックのフォロワー数が10万人を超えた。
エボラ出血熱が、ギニア、シエラレオネ、リベリアを中心に、史上最悪の規模で大流行した。エボラ対応に長年の経験と実績を持つMSFが流行地域の各地に治療センターを設置。患者の治療にあたる一方、国連総会や安全保障理事会で各国首脳に緊急援助を呼びかけるなど、国際社会に危機を訴え続けた。
エボラ出血熱が、ギニア、シエラレオネ、リベリアを中心に、史上最悪の規模で大流行。長年の経験と実績を持つMSFが流行地域の各地に治療センターを設置し、現場で患者の治療にあたる一方、国連総会や安全保障理事会で各国首脳に緊急援助を呼びかけるなど、国際世論に危機を訴え続けた。
MSF日本からは計87人のスタッフが、のべ126回、23の国・地域に派遣され援助活動を行った。MSF日本からの派遣回数は2011年以降、着実に増加を続け、2014年には累計1,000回を記録。
ネパール: 4月25日、ネパールで大地震が発生、MSFは日本を含む世界各地からスタッフを派遣し、緊急援助にあたる。
援助活動の現場では、情勢不安、インフラの不整備、限られた人材・物資などが理由で活動が制限される。MSFのR&D(研究開発:Research & Development)・調達ユニットでは、このような現場に革新的な技術やアプローチを取り入れることによって医療および活動全般の質向上を目指すとともに、医療・非医療両面の取引先の開拓にも着手した。
10月3日、アメリカ軍がアフガニスタン・クンドゥーズ州のMSFの病院を空爆。患者24人、付き添い4人、MSFスタッフ14人、計42人の命が奪われた。MSFは、紛争下であっても患者、医療スタッフ、医療施設は国際人道法で保護されているとして強く抗議し、国際的な第三者機関による完全で透明な調査を求めている。
シリア: 包囲と空爆が続くアレッポ市で医療施設への攻撃が繰り返される。MSFが運営・支援する施設も被害に遭い、多くの患者・スタッフの命が奪われる。
4月16日に発生した熊本地震の本震(マグニチュード6.4、最大震度7)を受けて、MSF日本のチームが現地入り。南阿蘇村白水地区での仮設診療所を拠点に所内での診察と周辺地域での移動診療を実施して、感染症や外傷、慢性疾患などに対応した。また、他の医療チームや地元保健師と連携し、小児科医の判断が求められる症例については紹介や相談を受けつけた。
アフガニスタン、シリア、イエメンほかでの度重なる医療施設への功撃を受け、MSFインターナショナル会長のジョアンヌ・リューは5月の国連安全保障理事会で、「医療は命がけの仕事であってはならない」と訴えた。MSF日本では「病院を撃つな!」と題したキャンペーンを始動。特設サイト、写真展、署名活動、クラウドファンディングなどを通し、医療施設への攻撃と紛争地の状況を広く一般社会に伝えている。