海外派遣スタッフの声

洪水により患者が3倍、多忙な活動で多くを学ぶ: 豊島さやか

ポジション
助産師
派遣国
パキスタン
活動地域
ジャファラバード郡/ナシラバード郡
派遣期間
2009年11月~2010年9月

なぜ国境なき医師団(MSF)の海外派遣に参加したのですか?

MSFへの参加が10代からの夢でした。MSFのスタンスのわかりやすさと潔さ、ノーベル平和賞を受賞するといった社会的認知の高さなど、表向きにはいろいろありますが、何より「かっこいい!!」と思ったのです。今回、パキスタン派遣のオファーを受けたことにより、大学院を退学したり(帰国後に再入学して現在また通学しています)といろんなことがありましたが、参加に迷いはありませんでした。待ち望んでいたオファーでした。

今までどのような仕事をしていたのですか? また、どのような経験が海外派遣で活かせましたか?

助産師として通算10年勤務しました。そのうち2年は青年海外協力隊としてベトナムにいました。ベトナムは識字率が高いので、書けば伝わる部分が大きかったのが救いでした。パキスタンの活動地域では識字率12%という低さだったので、教育レベルも非常に低く、患者さんに伝えることは本当に難しかったです。また、日本では助産師学校の実習教員も半年間行いました。現地でのスタッフ教育という面ではこれも大きく役に立ちました。

とにかく患者さんと直接話せるようになるために、あらゆる語学を勉強してきました。今回はアラビア語を習得していたことが大きなアドバンテージでした。長崎大学の熱帯医学研修を修了し、大学院では公衆衛生を学んでいたため、そうした医学以外の知識がこれまた非常に助けになりました。

今回参加した海外派遣はどのようなプログラムですか?また、具体的にどのような業務をしていたのですか?

前任の助産師(右端から2人めの女性)からは多くを学び、
とても影響を受けました。彼女の離任の日にスタッフたちと
撮影(デーラ・ムラド・ジャマリにて)。

初めての派遣でしたが、とにかくありとあらゆるものが盛りだくさんでした。プログラムの終了、新プログラムの立ち上げ(実際にはすでに立ち上がっていましたが、本格始動に向けて動いたのは派遣後でした)、洪水による緊急援助など。テロが起こったりする場所ではなかったのですが、民族紛争があるところなので警察や地元の有力者の誘拐話はよく聞きました。

ジャファラバード郡のウスタ・ムハンマドにある母子保健センターは、とてもうまくいっていたセンターで、正常分娩を対象としていました。1年ちょっとの間、医師、助産師など数名の外国人派遣スタッフがかかわっていました。当初派遣を予定していたナシラバード郡デーラ・ムラド・ジャマリの病院がまだ本格始動する前だったので、派遣後しばらくは、ここで活動してMSFというものを学んでいました。現地スタッフもプロトコル(業務にかかわる規則や手順など)をよく覚えていて、前任にものすごく経験のある助産師の外国人派遣スタッフもいたために、新米の私は、まさにおまけの浮草みたいになりながらも、とても客観的に学ぶことができてラッキーでした。4月のプログラム終了時は、現地スタッフや現地の人びとから惜しむ声がとても強く、MSFがしてきたことの大きさを知りました。そして3ヵ月後には、すべてもとどおりの普通のパキスタンの病院に変わってしまっていて、持続性の難しさも痛感しました。

デーラ・ムラド・ジャマリでは、異常分娩・帝王切開にフォーカスをあてた母子保健センターを、地元の政府病院の中の一角に作っていて、2月からそれが本格始動しました。オープンしてすぐ、心の支えだった前任の助産師が帰国し、初回派遣のMSF医師とともに文字どおり試行錯誤の連続で、よちよち歩きの現地スタッフを教育しながら運営しました。始めは患者も少なく正常分娩も扱っていたりしましたが、だんだん周囲の住民に認知されて異常分娩のケースが搬送されるようになりました。特に新生児室には小さい赤ちゃん、状態の悪い赤ちゃんが続々運ばれてきました。

そして8月の洪水以降、周囲一帯の病院や道路がすべてマヒしたことと、避難民がたくさんこの町にやってきたことで患者が3倍になり、初めての母体死亡もでました。緊急援助のための外国人派遣スタッフがいきなりたくさんやってきて、それによる生活上の戸惑いもありました。

デーラ・ムラド・ジャマリでは、外国人派遣スタッフがいくつかの部署に分かれ、それぞれで管理と現地スタッフの教育を行いました。助産師が妊婦健診、産婦人科医(4月から派遣)が病棟を担当、医師が新生児室という振り分けでした。これは非常にうまく機能しました。洪水以降、それまで雇っていた現地の医師もいない状況となり、完全に外国人派遣スタッフのみで運営したため人数が少なく、常にオンコール(待機)状態で、朝から晩まで、ときには朝帰りするほどに大忙しでした。現地の開業医は、かなり手遅れの状態で赤ちゃんを搬送してくるため、すでに亡くなってるということもありました。また、急いで帝王切開をしても、今度は出血が止まらない(開業医もしくは村の取り上げ婆の子宮収縮剤の多用による)などトラブルも多かったです。政府病院の中に母子保健センターを作ったために、そこにもともとあった産婦人科との連携もなかなか問題続きで、常に頭を悩ませていました。日本では見られない症例も数多く見ました。

週末や休暇はどのように過ごしましたか?

6週間に1度ある休暇は、首都イスラマバードの大きなスーパーへ、チームの代表として大量の食料の買い出しに行きました。カフェでお茶を飲んだり、ひたすら寝たり、とにかく後ろにカラシニコフ(銃)を抱えた警官がいないことが何より嬉しかったです。

長期の休暇は2回とりました。最初がベトナム、次はカナダに旅行しました。シャワルカミース(現地では外国人派遣スタッフも女性は現地の民族衣装を着ることが定められていました)を着ないでいい、夜も歩ける、1人で歩ける、食べたいものを決められる、何をしてもいい……、とにかく自由を満喫しました。ベトナムは協力隊で訪れていた古巣でもあり、ベトナム語を思いっきり話せたことがよかったです。また、MSFの一員となって(休暇中ではありましたが)ベトナムを再び訪れ、協力隊の頃に感じた国際協力への思いを改めて振り返って気持ちを新たにしたこともよく覚えています。カナダには日本から家族も合流してにぎやかな休みになりました。

現地での住居環境についておしえてください。

オフィスに隣接した同じ敷地内(ウスタ・ムハンマドでは50mほど離れていた)で、5人のMSFスタッフがそれぞれ個室で生活していました。自由は確かに少なく、隔離された環境でしたが、現地スタッフの宿舎が向かいにあって、夕方みんなでバドミントンをしたり、夜は自炊をしたり(メニューに代わり映えがなかったためチームが自炊を選んだのです)、ウノ(カードゲーム)をしたり、プロジェクターを使ってDVDを見たり、洪水前はとにかくそうしたチームの時間が楽しかったです。ワールドカップもあって、みんな日本を応援してくれたりしました。日本食はとにかくみんな大好きで、私も作ることがストレス解消でしたので、職種:助産師&シェフになっていました。

治安上、行動制限があって、外には1人で出られず、歩きでも車でも必ずカラシニコフを抱えた警官の護衛(なのか監視なのか)がありました(MSFの中でもこれは例外です)。

よかったこと・辛かったこと

ウスタ・ムハンマド、デーラ・ムラド・ジャマリ双方の
現地スタッフたちと撮影。この4人とは本当に仲良しでした
(イスラマバードでのミーティングにて)。

一番助けられたのは、とにかくチームがよかったこと。3人のプログラム責任者(リーダー)が来ましたが、どのプログラム責任者も経験豊かで外国人派遣スタッフの考えをよく尊重してくれました。プログラム責任者がよいチームは全体が非常にまとまるのです。プログラム責任者に限らずどのメンバーも個性的で面白くて笑いが絶えませんでした。特に医療チーム同士はお互いに疲れているかどうかを素早く察知して、休みなさいとお互いストップをかけていました。

現地の言葉をできるだけ使うようにして、10ヵ月が終わる頃には1人で問診ができるまでになりました。初めてウルドゥー語を話そうとする外国人派遣スタッフということで、長く勤めている現地スタッフはとにかく喜んでくれました。後続の外国人派遣スタッフが現地語にトライするようになったのは、私と現地スタッフ、患者さんのやりとりを見ていたからだと思っています。

辛かったことは、やはり患者さんを助けられなかったときです。もう手遅れと判断して治療を中断することもありました。もう少し早く来てくれていればとか、MSFに先に来てくれればとか、そんなことを言っても遅いのですが、とにかく救えずに、ご家族が本当に悲しまれていたのでやるせなかったです。大人だけではなく、それこそ小さく生まれた赤ちゃんなども同じでした。日本なら救えた、という気持ちは常にありました。

イスラム圏であることで、どうしても女性の立場が弱く、教育レベルも低く、注射1本、入院1つとして、自分の意思で決められない彼女たちに時に腹を立て、同情もしました。家族の反対があって適切な治療ができない時は、MSFがどんなに頑張っても、この深く根を張る部分は壊せないという限界を感じました。近親婚が多いために亡くなる赤ちゃんも多く、異常妊娠・出産が多いのも辛かったです。

あとは、常にスタッフを怒鳴って叱っていたことは本当に反省でした。怒る理由もあるのですが、どうしてもっと余裕を持って接してあげられないのか、と自己嫌悪ばっかりでした。それでもなついて、ついてきてくれる現地スタッフは本当に大好きでかわいくて、大切な妹たちでした。

洪水後で非常に忙しい時に離任するのは心苦しかったです。すでに1ヵ月延長していたのですが(これは洪水前に決まっていたことですが)、大学院の開始に合わせてどうしても帰らなくてはならず、後ろ髪引かれました。

50度という夏の気温もしんどかったです。

派遣期間を終えて帰国後は?

とにかく、行ってよかったです。今回このタイミングで行かずに大学院で学びを続けていても(そのあとオファーを受けても)、それはそれでよかったことですが、派遣を決めてあのチームに出会って、日本ではできない大きな経験、技術、知識を身につけ、そして何より改めて公衆衛生という知識がどれほど国際協力で必要なのかを痛感しました。すぐに次の派遣に行きたい気持ちを抑えて、ここはまた勉強をして、この10ヵ月で培った思いや疑問を整理し、パワーアップしてまたMSFに戻ります!

今後海外派遣を希望する方々に一言アドバイス

今回はたまたまパキスタンに行きましたが、大学院に戻ることを決める直前まで、次はアフガニスタンに行くために準備を始めようとしていたところでした。危険でも援助の手が必要とされているところに行きたい気持ちはとても強いです。危険なところに行くことをあおるわけではありません。パキスタンという場所が断る理由になる方もたくさんいることもわかっています。

MSFに参加したいけど躊躇する人は、自分ですでに何が足りないか、何を身につけるべきか、わかっていると思います。それがたとえば英語であったり、経験であったり。日本にはそれを身につける場所がたくさんそろっています。熱帯医学の知識も必要です。医療スタッフが医療だけの視点で活動すると視野が狭くなるかもしれません。派遣を焦らずに、それまでにたくさんの国の人を知り、文化を学んでいくといいと思います。それが回り道ということはありません。

そして大切なのは柔軟性です。こんなの言われてなかった! と拒絶したりせず、MSFが必要な場所なんだから何でもありだなあ、と受け入れ、1人だけではなくチーム(現地スタッフを含む)で取り組む姿勢があれば楽しめます。日本人のスタッフはまだまだ少ないので、「日本人ってみんなサヤカみたいにクレイジーなの!?」と、日本人と初めて働くチームメンバーに誤った日本の認識を植えつけるならいまです!!

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