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キブにおける戦争 1993年~2008年

1994年7月
ルワンダのフツ族過激派政府が、80万人にのぼるツチ族とフツ族穏健派の大虐殺を指揮する。
ⓒ Sebastiao Salgado

1994年7月
60万から100万のルワンダ難民がコンゴ民主共和国内のゴマとブカブ地方に到着する。
ⓒ Sebastiao Salgado

1994年7月
ゴマに到着した難民はキブンバ、カタレ、ムグンバの3つのキャンプに分けられた。
ⓒ Sebastiao Salgado

1994年7月
暑さ、水と食糧の不足、同時に生じたコレラと赤痢の流行によって何万もの命が危機にさらされる。
ⓒ Sebastiao Salgado

1994年7月、ゴマ
ムニギ・コレラ治療キャンプ。コンゴ各地の大規模かつ不衛生なキャンプ内でコレラが広がり、1万2千人が亡くなる。
ⓒ Teun Voeten

1994年7月、ゴマ
ムニギ・コレラ治療キャンプ。
ⓒ Teun Voeten

1994年7月、ゴマ
ムニギ・コレラ治療キャンプ。
ⓒ Teun Voeten

1994年7月、ゴマ
ムグンガ・キャンプが攻撃された後、11月15日から18日にかけて、40万から70万人の難民がルワンダに戻った。
ⓒ Remco Bohle

1994年7月、ゴマ
数千人の難民がムグンガ・キャンプの奥の山中で足止めされる。
ⓒ Remco Bohle

1994年7月、ゴマ
数週間の長きに渡る移動中、多くの人が飢餓、極度の疲労、銃弾や鉈による負傷のために命を落とした。
ⓒ Remco Bohle

1997年1月、ビアロ
1996年秋、戦闘の発生によりルワンダ難民の多くは故郷へと向かうことになったが、約35万人が衝突の絶えない危険なザイール(現コンゴ民主共和国)東部に取り残される。
ⓒ Sebastiao Salgado

1997年1月、ビアロ
難民の状況は悲惨を極めている。ザイール赤十字によると、孤児の数は約千人であった。子どもたちが線路沿いに並ばされている。
ⓒ Sebastiao Salgado

1997年1月、ビアロ
恐るべき速さで人が亡くなっている。彼らは食糧、水を必要としており、故郷への安全な道を求めている。しかし誰も難民問題を優先事項だと考えていない。
ⓒ Sebastiao Salgado

1997年1月、ビアロ
ルワンダからの数万人のフツ族難民。彼らはここ5ヶ月の間、ザイール反政府勢力から逃れて森に隠れ、極度に疲労し、飢えに苦しみながら帰国の機会を心待ちにしてきたが、今、新たな悪夢に直面している。
ⓒ Sebastiao Salgado

1997年3月、ルラ
コンゴ民主解放勢力同盟(AFDL)は、ルラから来た難民がキサンガニを通って帰国することを拒否している。そこから19km離れた場所では、ザイールの地元当局が難民の受け入れを拒否し、次の難民受け入れ地であるキセサ村に追いやった。
ⓒ Sebastiao Salgado

1997年4月、キサンガニ
ルワンダに空路で戻るまでの間の一時滞在キャンプ。すさまじい戦闘により、100万人のフツ族難民が数日の間にザイールに逃げた。
ⓒ Kadir Van Lohuizen/Noor

1997年4月、キサンガニ
4月7日、カビラ議長はキサンガニ南部にいた10万人の難民をルワンダに帰還させることに合意する。ビアロ発キサンガニ行きの列車は、ルワンダに向かう2千人で満員になる。この列車の中でほぼ100人が亡くなった。
ⓒ Kadir Van Lohuizen/Noor

1997年4月、ビアロ
鉈で傷を負った女性。ビアロ難民キャンプにて。
ⓒ Kadir Van Lohuizen/Noor

1997年4月、カセセ
キサンガニ地方のカセセ・キャンプ。キャンプ内で不安感が高まっている。
ⓒ R.Chalasani

1997年4月、カセセ
キサンガニ地方のカセセ・キャンプ。人道援助従事者は、キャンプに援助を届けようと奮闘している。
ⓒ R.Chalasani

1999年12月、ブニア地方
レンドゥ族の人びと。反政府組織と政府軍の間の衝突に加えて、ヘマ族とレンドゥ族との間の抗争が増え続けている。
ⓒ Remco Bohle

1999年12月、ブニア地方
ブニア地方の小さな診療所。民族間の争いのため、多くの負傷者や避難民が収容されている。
ⓒ Remco Bohle

1999年12月、ブニア地方
イガの町周辺で起きた夜間の襲撃から逃れて、ブニアに向かうヘマ族。
ⓒ Remco Bohle

1999年12月、ブニア
ブニアの重要な橋の1つがすさまじい戦闘で壊された。
ⓒ Remco Bohle

2001年10月、シャブンダ
栄養治療センターにいる母親と幼児。戦争により、数十万の人びとが避難を強いられている。人びとの健康状態は深刻である。国の東部のいくつかの場所では、乳児死亡率は年間で41%にも達している。
ⓒ Chris Keulen

2001年10月、シャブンダ
シャブンダのカトリック教会。棺のそばで嘆く女性。
ⓒ Chris Keulen

2001年10月、キチャンガ
重病の子ども2人を抱えた母親が1日中歩いて栄養治療センターに到着した。
ⓒ Chris Keulen

2001年10月、キチャンガ
避難生活を送る、勉強中のザキトカ・エリザベス(7才)。彼女は弟たちの面倒もみている。避難中の子ども10人中4人は学校に通っていない。避難により教育を受ける機会がない子どもは、約40万人にのぼる。
ⓒ Chris Keulen

2002年8月
コンゴ民主共和国で戦争が始まって10年になる。同国での虐殺、集団レイプや避難はもはやニュースにさえならなくなった。戦争以前には、限りはあっても広い範囲で医療を受けられたが、今ではそれらの設備はほとんど破壊されている。
ⓒ Petterik Wiggers

2003年11月、カバティ
北キブ州のカバティは、衝突の影響をもっとも大きく受けた地域の1つである。
ⓒ Kate Holt

2003年11月、カバティ
この地域では情勢不安により、栄養失調にかかる人が増加している。人びとはジャングルに逃げ込み、畑を耕すことができていない。危険すぎるからだ。もし1人で畑に戻ろうとすれば、撃たれたりレイプされたりする危険がある。
ⓒ Kate Holt

2003年11月、カバティ
月に平均100人から150人の子どもが重度の栄養失調の治療を受けている。多くの子どもは、結核など他の病気も併発している。
ⓒ Kate Holt

2005年3月、ゴマ
ナディン、子どもと友人とともに、ゴマのスラムにある自宅にて。生活のために売春婦として働いている。
ⓒ Sven Torfinn

2005年3月、ゴマ
アリス・マオンビ(19才)、ゴマの自宅にて。コンゴ東部での戦争中、彼女は誘拐されてレイプされた。どうにか生き延びることができた。
ⓒ Sven Torfinn

2006年3月、デュビエ
カランベから来たムジンガ・カボンゴ(4才)、はデュビエの診療所で栄養失調とマラリアの治療を受けている。
ⓒ Marcus Bleasdale/VII

2006年4月、イトゥリ地方
キブ地方での暴力が激しくなる一方、国内の他の地域も略奪されつくし、食糧、避難所、基本的な医療の欠如に悩まされている。
ⓒ Spencer Platt/Getty Images

2006年4月、カビヤビユンガ
レイプの被害にあったことを医療スタッフに話しながら、顔を覆ってしまった女性。
ⓒ Spencer Platt/Getty Images

2006年4月、カビヤビユンガ
女性に対する性的暴力に関する統計は今のところ手に入らないが、この犯罪はコンゴに蔓延していると医療スタッフは考えている。被害女性が夫に拒絶されたり、地域社会から非難されたりするのを恐れているため、被害は往々にして報告されない。
ⓒ Spencer Platt/Getty Images

2006年3月、カイナ
栄養治療センターにいる避難民の男の子。手にしているのは夕食。
ⓒ Platt/Getty Images

2007年6月、ゲティ
5万人もの避難民が、中心都市、ブニアから約60km離れたゲティに安全を求めて到着した。破壊された村々から逃げ、数週間から数ヶ月を森で過ごした後、彼らの健康はひどい状態になっていた。
ⓒ Marcus Bleasdale/VII

2007年7月、ゲティ
戦闘から逃げのび、早朝にゲティにたどり着いた避難民。
ⓒ Marcus Bleasdale/VII

2007年10月、ゴマ
暴力の拡大にともない、北キブ州の避難民は大幅に増加している。戦闘と治安悪化により、人道援助団体の活動は困難になっている。多くの道路が遮断されているため、行くことのできない場所が州内に多くある。
ⓒ Marcus Bleasdale/VII

2007年10月、ゴマ
カルバやムシャケでの戦闘から逃げた人びとがゴマで野宿している。
ⓒ Marcus Bleasdale/VII

2007年10月、ゴマ
避難民キャンプ。この辺りの森に逃げ込んだ女性の多くはレイプの被害にあっている。
ⓒ Marcus Bleasdale/VII

2007年10月、ゴマ
コンゴ民主共和国では過去4年間にわたって、毎年3万件のレイプ被害が報告されている。実際の数はその4倍以上とみられている。
ⓒ Marcus Bleasdale/VII

2008年5月、キサンガニ
キチャンガのムンゴテ避難民キャンプの風景。
ⓒ Ryo Kameyama

2008年5月、キサンガニ
キチャンガのムンゴテ・キャンプで雨をしのぐ場所を求める避難民。
ⓒ Ryo Kameyama

2008年5月、キサンガニ
キチャンガのムンゴテ・キャンプで避難生活を送る女性。
ⓒ Ryo Kameyama

2008年5月、キサンガニ
キチャンガにあるMSFの移動診療所で治療を受ける子ども。
ⓒ Ryo Kameyama

2008年10月
最も戦闘が集中したコンゴ東部のルマンガボ近く、カバヤという町に、戦闘が収まっている間に荷物を取りに戻ってきた2人の女性。
ⓒ Dominic Nahr / Oeil Public

2008年10月
戦闘のために、身の回りの品を持って避難民キャンプから逃げる人びと。
ⓒ Dominic Nahr / Oeil Public

2008年10月
北キブ州の暴力はここ数ヶ月、過去数年で最悪のレベルに達している。数十万の人びとが、戦闘を避けて滞在していた村やキャンプを離れた。安全を求めてたどり着いた場所から、人びとは再び移動せざるをえない。なぜならそこでさえもはや安全ではないから。
ⓒ Dominic Nahr / Oeil Public







1993年:
長年にわたり、ルワンダ語を話す少数民族(バニャルワンダ)が大勢、南北キブ州で暮らしてきた。このルワンダ系住民のなかでのフツ族とツチ族との対立が激化する一方で、地元の政治家が組織した民兵組織がルワンダ系住民を激しく攻撃し、ルワンダ系住民側もこれに反撃した。3月、ある村への襲撃がきっかけとなり、北キブ州マシシ平野で民族間の全面戦争が始まった。4月から7月までの間に少なくとも6千人が殺害され、35万人以上が住む場所や村を追われた。彼らは、学校や教会に隠れたり、親戚のもとに身を寄せたりした。地域の医療施設には新たな患者が大挙して押し寄せ、受け入れ能力は瞬く間に限界に達した。

1994年-1995年:
隣国ルワンダでの大虐殺の影響がザイール(コンゴの当時の呼称)にも及んだ。1994年の4月から7月にかけて、ルワンダのツチ族50万から100万人が、ルワンダ国軍(FAR)に指揮された民兵組織によって皆殺しにされた。これに対して、ウガンダに亡命していたツチ族が組織した反政府勢力、ルワンダ愛国戦線(RPF)がルワンダで軍事攻撃を開始し、1994年7月初旬に首都キガリで政権を掌握した。前政権から脅しを受けたり、RPFの進軍に伴う一般市民の虐殺を恐れたりして、100万人を超えるフツ族がルワンダから逃れた。

彼らは、北キブ州の州都ゴマ周辺と南キブ州のブカブ周辺の、大規模で過密状態にあったキャンプに身を落ち着けた。その後間もなくゴマでコレラの流行が発生し、国境なき医師団(MSF)などの援助団体は、適切な治療を提供して流行を抑えようと試みた。こうした努力にも関わらず、コレラはキャンプ全体に蔓延して5万人以上の死者が出た。

その間にも、難民キャンプの治安状況は悪化していた。ルワンダの大虐殺を行ったフツ人民兵組織インテルハムウェや(元)ルワンダ国軍の兵士、地域の指導者らが、キャンプ内で影響力のある地位をいち早く獲得していたのである。援助の大規模な横領、故国へ戻りたいと願う難民に対する暴力、プロパガンダ、脅しにより、各キャンプはルワンダを攻撃するための後方基地へと形を変えられてしまった。

こうした事態を受けてMSFは、公平で独立した援助を提供することは不可能と判断し、1994年11月にプログラムの一部を終了した。その後数ヵ月間、状況の改善に向けて努力を重ねたが成果は得られず、1995年7月に難民キャンプから完全に撤退した。

1995年6月、北キブ州のマシシ地方では、ルワンダ難民の中のフツ族過激派に煽られて、地元のフンデ族とバニャルワンダ族間の紛争が勃発した。暴力は11月に頂点に達した。

ルワンダでの紛争がザイールに飛び火した結果、ツチ族はあらゆる勢力から標的とされた。1994年7月から1995年の終わりにかけて、ザイールのツチ族3万8千人がルワンダに逃れた。

第一次コンゴ戦争

1996年:
ザイール東部で、ローラン・デジレ・カビラが、モブツ・セセ・セコ政権に反対する連合軍であるコンゴ民主解放勢力同盟(AFDL)の指揮権を握った。

一方、ルワンダ政府は、ザイール国内の難民キャンプにおけるルワンダ人過激派の脅威を排除しようとしていた。ブルンジとウガンダから支援を受けたルワンダ政府は、カビラの率いるAFDLに兵士として採用されていたバニャムレンゲ族の若者を訓練し、武装させた。

その後、10月にルワンダ軍およびブルンジ軍とAFDLは、キブ州の難民キャンプを攻撃した。数週間にわたり、数十万人もの難民が攻撃の標的とされた。人道援助団体や報道機関は現地への立ち入りを拒否された。

11月、ルワンダの新政権が難民の帰国を認め、40万人から70万人の難民が帰還した。その後数ヵ月間、AFDLおよびRPFの軍事組織であるルワンダ愛国軍(RPA)は、ザイール国内でさらに数十万人の難民を追討した。この間、反政府勢力、ルワンダ当局、そしてある時点までは国際社会でさえも、こうした難民の存在を否定した。武装勢力は人道援助をおとりとして使い、森の中に隠れていた難民たちをおびき寄せて殺戮した。

1997年:
ルワンダ政権の支援を受けたAFDLが首都キンシャサに入った。ローラン・デジレ・カビラが新大統領に就任し、国名は公式にコンゴ民主共和国(DRC)となり、第一次コンゴ戦争が終結した。

第二次コンゴ戦争

1998年:
コンゴの新政権とルワンダ、ウガンダとの間に不和が生じ、戦闘が再発した。ルワンダとウガンダに支援された反政府勢力がカビラ政権に対して蜂起し、コンゴ東部の大半を掌握した。アンゴラ、ジンバブエ、ナミビアはカビラ政権を支持した。こうして8ヵ国の25を超える武装勢力が戦闘に巻き込まれた。

2000年:
国連安全保障理事会は、締結されたばかりの停戦合意の監視を任務とする、コンゴにおける平和維持軍の展開を承認した。国連コンゴ民主共和国ミッション(MONUC)は後に、世界最大規模の平和維持活動となる。

しかし、大規模な戦闘はコンゴ各地で続いた。北キブ州の人びとは、治安の悪化によって避難を強いられ、医療にかかることができなくなった。マシシ地方では栄養失調率が上昇し始めた。MSFは、避難民の流入によって人口が1990年代初頭に比べて4倍に増えていたキチャンガの町で、栄養治療センターの運営を開始した。

2001年:
ローラン・デジレ・カビラ大統領が暗殺され、息子のジョセフ・カビラが後を継いだ。「コンゴにおける天然資源およびその他資源の違法開発」に関する国連の専門委員会は、紛争当事者たちは、金、ダイヤモンド、コルタンなどの鉱物資源を略奪するために、故意に戦争を続けているという報告を発表した。

2002年:
南アフリカで、コンゴ政府と戦闘に関与したすべての反政府勢力との間で和平協定が結ばれた。ルワンダは自国の部隊を引き揚げることを約束し、一方でコンゴは、コンゴ東部に留まっている、大虐殺を指揮したルワンダのフツ族を武装解除し、拘束することとなった。

その間にも、コンゴ東部では数千人の人びとが何度も避難を強いられていた。2002年の終わりまでに、イトゥリ地方での暴力から避難してきた数千人の人びとの流入を受けて、MSFは北キブ州の北部地域で新たなプログラムを開始した。南キブ州では、バラカ周辺で生じた戦闘によって、町の住民の3分の2が避難を余儀なくされた。その後、ニイラゴンゴ火山の噴火によって北キブ州の州都ゴマは壊滅的な被害を受け、さらなる避難が生じた。

2003-2004年:
和平合意に沿って、ジョセフ・カビラを大統領とし、主な反政府勢力の指導者らを副大統領とする暫定政府が樹立された。反政府勢力と民兵組織は、新たに統一された国軍に統合される予定となった。

しかし、ルワンダからの支援を受けた反政府勢力の指導者であるローラン・ヌクンダは、統一国軍の准将というポストを受け入れてキンシャサへ行くことを拒否した。彼は、和平合意の対象はキンシャサにおける権力の分担であって、キブ州における問題は対象外であると宣言した。2004年に起きた暴動の後、ヌクンダが率いる勢力は南キブ州の州都ブカブを数日間支配した。

2006年:
40年以上ぶりに実施された民主的選挙によって、ジョセフ・カビラがコンゴ大統領として正式に選出された。しかし正式な協定により、コンゴ政府軍(FARDC)への武装勢力の統合が決められていたにも関わらず、さまざまな勢力が戦闘を続けた。

紛争の被害を受けていた地域の一部には平和が戻ったが、東部では依然として武装勢力間の戦闘が続いた。一般市民に対する暴力や略奪は止まず、人びとは絶えず避難を強いられた。インフラの欠如、絶えざる移動、飲料水の不足、適切な医療の欠如などが主な原因となって、大勢の人びとが命を落とした。

2007年-2008年:
2007年8月、コンゴ政府軍とヌクンダが指揮する人民防衛国民会議(CNDP)との間で戦闘が再発した。

2007年11月にルワンダとコンゴの間でナイロビ合意が締結され、2008年1月には国際社会の仲介で和平合意が結ばれたにもかかわらず、北キブ州における戦闘と一般市民への暴力は続いている。2008年8月に戦闘が大幅に激化し、人びとの大規模な避難が生じた。10月にはCNDPがいくつかの地域を制圧し、ゴマにも接近したことで和平合意は反故にされた。12月8日ナイロビで、CNDPとコンゴ政府代表との間の協議が、国連の仲介のもとで始められた。

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