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サイトトップ > ニュース > イトゥリ地方で数千人の市民が孤立、再び武力紛争に巻き込まれる

イトゥリ地方で数千人の市民が孤立、再び武力紛争に巻き込まれる

(2010.5.7)

コンゴ民主共和国(DRC)のオリエンタル州イトゥリ地方南部では、2009年末以来、数千人の一般市民が政府軍と民兵組織との間の武力紛争に巻き込まれている。戦闘に脅えながらこれまで留まってきた人の間でも、疲弊して自分たちの町や村を離れる人がでてきている。こうした人びとは数人でグループになり、人目を避けながら戦線を越え、イルム地方の2つの小さな町、ゲティとアヴェバにたどり着いた。そこでは国境なき医師団(MSF)が避難民に対して緊急医療援助を行っている。

MSFのDRCにおける活動責任者、ロランス・ゴベールは語る。「避難民の大半は私たちが診察したとき、空腹で疲れ切っていました。私たちは、まだ避難できずにいる人びとの最悪の事態を危惧しています。彼らは前線の後ろに取り残され、なんの援助も受けられずにいるのです」。

イトゥリ地方には緑豊かな丘陵地帯がある。なだらかな丘陵がアルバート湖に沿ってブニアの町の南方まで続いており、東隣の国ウガンダとの国境をなしている。アルバート湖に向かって広がる東部のシミリキ平野にせよ、チェイの町に向かって西方に広がる広大な森にせよ、イトゥリ地方には肥沃な土地が多い。繁栄する条件は備わっているのに、残念ながら現実のこの土地では、平穏なンギティ族の農民の姿以外には、人の営みの気配を感じさせるものはない。希少鉱物資源が豊富なイトゥリ地方は、これまでに多くの強欲と数えきれないほどの暴力を生んできた。イトゥリ地方が「暴力の地」という残念な評判を得ているのも、こうした理由による。援助団体「アフリカの医師団」で働く若い医師は、キンシャサからブニアに到着した時にこう話した。「キンシャサの人びとにとっては、イトゥリと聞くだけで恐ろしいのです。私がイトゥリの総合病院の状況を見に行くと話したとき、家族はパニック状態になり、思いとどまるよう説得しました」。

イトゥリの悪夢は終わってはいない

家財道具を持って避難してきた人びとを受け入れる
アヴェバのキャンプ。
家財道具を持って避難してきた人びとを受け入
れるアヴェバのキャンプ。

20世紀末に始まった紛争の暗黒の時代から、今日まで絶え間なく続いているのは、決して消え去ることのない不安である。情勢が不安定なことは、対立する武装勢力が一般市民に対して行う暴力行為からも明らかである。人びとは終わりのない暴力に疲れ切っている。MSFはゲティで病院や診療所数ヵ所を支援している。ゲティにおけるMSFの医療コーディネーター、エルザ・ムーランは語る。「イルム地方では、これまでに大部分の人びとが自分たちの住む町や村からの避難を余儀なくされました。世界の関心が薄れるなか、人びとは今も暴力に耐え続けています。何のとがめも受けずに繰り返された不当な行為の歴史は、人びとの記憶から消え去ることはありません。今もなお起こり続けているこうした出来事によって、外部にいる私たちもイトゥリでの悪夢は終わっていないのだと気付き始めたのです」。

昨年12月に新たな武力衝突が始まった。政府軍はポトポト地区とチェイにいる民兵組織に対して攻撃を開始。これに対抗して民兵組織も同じくらい多くの攻撃を仕掛け、何千人もの一般市民が窮地に追い込まれた。ムーランは語る。「人びとに残された選択肢は至って単純です。命の危険を冒して逃げるか、食糧なしで何ヵ月も隠れ続けるかのどちらかなのです」。肥沃なポトポト地区の森に接するオクという村の農民、パパ・キンゾは、3月23日に体調のひどく悪い自分の子どもをMSFがオゾバで行っている移動診療に連れて来た。住んでいた村からやっとの思いで逃げ出してきたキンゾはこう語る。「12月7日に政府軍の兵士がやって来て、私たちを村から追い出しました。それ以来、食糧を探しに村に戻ることはできませんでした。畑には銃を手にした兵士がいて、見つかれば撃たれてしまいます。なぜなら、この地域では民兵が私たち市民に混じって生活しているからです。実は、私たちは2001年から何度もこのように村から追い出されているのです」。

4日間かけてオゾバへ

疲弊が激しい子どもや高齢者は車でキャンプまで搬送する。
疲弊が激しい子どもや高齢者は車でキャンプ
まで搬送する。

3月初旬に政府軍が2度目の攻撃を仕掛けると、事態はエスカレートしていく。憂慮すべき知らせはゲティにも届く。事実であるかどうか確認はされていないが、家族のためにわずかばかりの食糧を探しに出掛けた一般市民が殺されているという噂も伝わってきた。ムーランは語る。「私たちは最初に逃げてきた人びとを3月8日に受け入れました。その数はごくわずかでした。彼らは誰よりも空腹だったに違いありませんが、誰よりも先に避難を試みるには勇気が必要だったでしょう。彼らはとても勇敢だったに違いありません。逃げてきた人びとのなかには、母親や子ども、お年寄りも何人かいました。歩ける人だけが来たのでしょうね。彼らは4日間かけてオゾバにたどり着きました。彼らは兵士に見つからないように森の中を夜間歩いてやって来たのです」。

その後の数日間で、避難のために移動を始める住民の数は次第に増えていった。ワレンドゥ・ビンディの地域住民のリーダーと、現在のところ現地で唯一の人道援助団体であるMSFは共同で、対立する武装勢力のリーダーたちと交渉し、激戦地域から住民が安全に避難できるよう求めた。残念なことに3月末の時点で、ごくわずかの人びとしか森からの脱出を果たしていない。民兵組織の役割は、議論と疑問の対象になっている。彼らは自分たちの家族を盾にし、その生命を危険にさらしているのではないかという疑問である。

MSFの医療チームが受け入れる疲弊した避難民の数は増え続け、多くがアヴェバとゲティの医療施設に搬送されている。MSFが診察した5歳未満の子どものうち10%近くが深刻な栄養失調状態にあり、ゲティの病院で入院治療を受ける必要がある。避難の途中で過度の疲労により身動きが取れなくなった人びとや、両側から飛んでくる銃弾に倒れた人びとの数を確認することはできない。戦闘地域には依然として立ち入ることができないのである。

再び窮地に追いこまれて

キャンプに設置されたテントの診察所。
キャンプに設置されたテントの診察所。

こうしてこれまでに2046人が戦闘地域からの避難を果たした。しかし、4月に入ると、残された人びとは再び森に囚われたままになった。別の言葉でいえば、避難するための扉は開かれていても、茂みから逃げ出すことに成功する人はごくわずかなのだ。

現在どれほどの数の人びとが、森のはずれで食糧もなく砲火にさらされたまま窮地に追いやられているのだろうか。最低でも数千人はいるだろうと地域の指導者は話す。ゴベールは怒りをこめて語る。「銃を持った兵士たちは自分たちの家族がどういう状況に置かれているのか、まったくわかっていないのではないかという気がします。不安定な情勢のせいで、窮地に追いやられた人びとに人道援助もまったく届けることができません。これは悲劇的な事態です」。地元住民の証言によると、ブニアから来た一人の勇敢で頑強な学生以外に取り残された家族を救い出すことに成功した者はおらず、窮地に追いやられた人びとに手を差し伸べることのできた民間人はごくわずかである。ゴベールはいう。「その学生、アダバ・マスンブクは家族を連れてゲティに戻ったとき、なすすべなく追い詰められた人びとの様子を絵に描いてみせました」。悲観の色を隠せない彼女は続けてこう自問した。「状況が変わるまで、私たちは苦境に陥った人びとが死んでいくのをただ待っていなければならないのでしょうか」。

ゲティとブニアの住民の多くは、戦線の向こうで起きていた出来事について、いつか知る時が来るとは思っていない。イトゥリでの出来事については深い沈黙が守られ、イトゥリの人びと、特に避難を試みて捕らえられた女性や子どものことについて、口を開く者はいない。ゴベールはこう締めくくる。「私たちが戦っているのは、勝ち目のない戦いではありません。私たちはここで起きている出来事を忘れ去ることなく、無関心をやめなければなりません。人びとが平和に暮らしていけるための解決策を見つけ出さなくてはなりません」。

最新のニュースによると、ムカト・ンガジの森で戦闘が再燃し、ふたたび避難しようとする市民にとっては出て行くことが困難な状況となっている。

避難民の証言:「殺された女性の遺体を見たこともあります」
(2010年3月25日 アヴェバにて)

20歳のアミシは妻と3人の子どもを持つ若い父親で、チェイやムカトに近い地区の農民である。彼はMSFがアヴェバに設けた中継地に運ばれてくる前日、政府軍が開いた回廊を通って、クレからオゾバに向かっていた。この回廊は政府軍が、援助団体とゲティの市民団体からの緊急の要請を受けて、一般市民が安全に通行できるルートとして開いたものだ。

アミシは語る。「私たちはクレを離れることを決意しました。なぜならクレでの生活は非常に厳しく、特に食糧の不足に苦しんでいたからです。私は毎日、畑で働いていましたが、ここ数週間、畑は軍隊に占拠されていました。そのため私たちに残された選択肢は多くはありませんでした。森の中や仲間が集まっている場所の周辺で、木の根元に生えているマッシュルームを見つけて食べたり、時にはサルが食べるような野生の果物を食べたりしていました。しかしそれだけでは空腹を満たすには十分ではありません。そのため私たちは夜のうちに政府軍が占拠する畑に出掛け、食糧を探さなければなりませんでした。見つかれば命の危険があります。朝になると、どこかの誰それが夜のうちに殺されたというような話を何度か聞きました。母親らしき女性の死体を見たこともあります。私は自分の幸運を神に感謝します。私はまだこうして生きていて、わずかでも家族に食べさせてこられたのですから。私が畑からキャッサバの芋や葉を取って戻ってくると、家族でそれを食べていました。時には、それだけで家族全員が丸1週間しのぐこともありました。一人が1日に食べるのは1口か2口です」

「私の妻と3人の子どもは、いまだに他の人たちと一緒にいわゆる「避難回廊」の中にいます。私は家族とマブヒリで別れなければなりませんでした。ひどい頭痛と目まいを覚えたためです。それは耐え難いものでした。MSFが回廊の終点で診療を行っていると聞き、私は家族より先に行くことにしたのです。私は回廊をたどりましたが、ただ真っ直ぐに進むことはできませんでした。銃を持った兵士たちを避けるためには、あらゆる注意をしなければならなかったのです」

現在アミシはアヴェバで、家族の到着を待っている。これからどうやって住むところを見つければよいのか。妻と3人の子どもは無事に生き延びられるのか。アミシはすでに将来に多くの不安を抱えている。

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