シリア:20回の手術を乗り越えた女性が語る4年間

2016年11月15日掲載

ヨルダンの自宅のベッドで体験を語るアマル・アブダッラーさんのスケッチ ヨルダンの自宅のベッドで体験を語る
アマル・アブダッラーさんのスケッチ

内戦が続くシリア、包囲され爆撃が繰り返されているアレッポ市東部。地域内の住民は、自宅から避難するか、全滅するかの選択を迫られている。次に起きるであろうことに備え、緊張が走る日々。

その一角、サラヘッディーン地区で生まれ育ったアマル・アブダッラーさん(仮名)は、立ち退くようにと言われた2012年の夏の日のことを思い出していた。

彼女は2016年の秋、ヨルダンの首都アンマンの病院にいる。国境なき医師団(MSF)が提供している再建外科プログラムの対象となり、1年にわたる治療を続けてきた。この4年の間に彼女の身に何が起きたのか。世界にその事実を伝えるべく、打ち明けてくれた。

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忍び寄る内戦の恐怖

「私のような目にあう人が二度と出ないことを願っています」 「私のような目にあう人が二度と出ないことを願っています」

2012年の7月半ばのことでした。当局が「ここから避難しなければひどい目に遭うぞ」と言ってきたのです。

私は生まれも育ちもアレッポのサラヘッディーン地区で、満ち足りた生活をしていました。人びとは助け合い、自由があり、経済は活発でした。両親と兄弟姉妹と一緒に生活し、商店街にあるお店で働いていました。そう、32歳のときまで。

でも、シリア内戦が始まってから全ては変わり、それまでの生活は失われました。

当局から避難するように言われ、その言葉を信じて出て行った人がいた一方、信じずに「爆撃は受けないさ」と楽観していた人もいました。多くの人は家財を残して出て行く気になれませんでしたし、ほかに行くあてがなかった人もいました。

私たち家族は親類がいるアレッポ市中心部のアル・カラセ地区に引っ越しましたが、父だけは自宅に残りました。

私は時々、父に会ったり服を取りに戻ったりするためにサラヘッディーン地区に入りましたが、そこはすでに危険地帯でした。爆撃が繰り返され、地上戦も続いていて、道路には車もほとんどなく、電気も水も通信も止まっていました。

平穏な生活がある日……

これと対照的にアル・カラセは静かで平穏でした。避難場所の近くには要塞(ようさい)と大きな青果市場があります。完全に"平和"というわけではありません。軍用のヘリコプターや飛行機の音が聞こえましたから。でも、引っ越してからしばらくはいつも通りの生活を続けることができていました。近所付き合いもし、家族でおばの家に集まったり、歯医者さんに通ったり。

2012年8月1日の夜、私はいとこと一緒に帰宅中でした。突然の閃光(せんこう)と爆音。近くに爆弾が落ちたのです。誰かが建物へ引っ張り込んでくれましたが、私たちは家を目がけて走り出しました。

その間も、2発目の爆弾が建物の間に落ちるのが見えました。路上の人びとはパニック状態でした。走って行く人、叫んでいる人、けがをしている人……。また誰かが私たちを屋内に引っ張り込んでくれました。通されたのは2階の部屋でした。

避難した場所で

ろうそくに火をともす人がいました。ソファに腰をかけて、気持ちを落ち着けました。家から電話が5~6回ほど続けてかかってきました。私の居場所を確認し、状況は悪くなっていると伝えるためでした。

次の瞬間、また強い光が走り、爆発音が鳴り響きました。叫び声を挙げたことは覚えていますが、その時は何の痛みも感じませんでした。

気づくと、私の隣に立っていた女の人は床に倒れて息絶えていました。私は毛布の上に転がされ、下の階に運ばれました。救急車を呼ぶ声が聞こえました。

救急車の中で、救急隊員に取り囲まれ、いろいろ聞かれました。名前は?家族は?携帯電話はどこ?私の電話は見つかりませんでしたが、妹の電話番号は覚えていました。妹は、かかってきた電話に出て私の名前を聞いたとき、私が死んだのかと思ったそうです。私は生きていました。ひどいけがを負ったけれど、命は助かったのです。

爆撃の中を病院へ

アブドゥル・アジズ野外病院で、麻酔と止血の応急処置を受けました。爆風で壁にたたきつけられたため、ひじの骨が砕けていました。足はちぎれそうになっていて、手、腕、胸、あばら骨、腹にも傷を負っていました。

そこからアル・ラジ公立病院に移送されました。ひどく消耗する危険な旅でした。私はまだ出血が続いていて、地域では砲撃がまだ続いていたのです。

爆撃は地域全体に及んでいました。病院に着くとすぐに手術室に運びこまれました。全身麻酔を受け、コーランの一節を唱えられるかと外科医に聞かれたところで記憶が途絶えています。手術は、その夜10時から翌朝8時まで10時間にも及んだそうです。私が目を覚ましたのはそれから5日後のことでした。

退院にこぎつけても、安全な場所はありませんでした。骨折もひどかったのですが、最大の問題は恐怖でした。飛行音がするたびに、痛みがひどくなるのです。

ヨルダンへ避難、MSFとの出会い

毎日、毎晩、爆音が聞こえるのです。流れ弾が庭に落ちて妹がけがをしたこともあります。電気も通信も途絶えました。4年が過ぎた今もフラッシュバックが続いています。爆撃にあった1ヵ月後、私たちはアレッポを離れ、ヨルダンへ避難しました。

この4年間で、私は20回もの手術を受けました。足、腕、手の手術です。ヨルダンのアンマンでMSFが提供している再建外科プログラムの対象となり、1年にわたって骨移植と経過観察を受けています。間もなく退院です。松葉杖を使っていますが、手は人工関節のおかげで自由に動かせます。

アレッポに残された人のことが心配になります。移動さえ危険すぎるような生活を身を持って体験しましたから。私のような目にあう人が二度と出ないことを願っています。

私は、どこにでもいる普通の女の子として爆撃に遭う前の生活に戻りたい。「そのけが、どうしたの?」と聞かれて悲しくなることがあります。でも、防ぎようがなかったこと。受け入れなくては……。よい治療を受けられて幸運だと感じています。あとは完全に回復することを願うのみです。

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