ケニア:難民キャンプ閉鎖に「私には故郷」――ダダーブで育ったMSFスタッフ

2016年10月18日掲載

ハサン・スーガル・タコイ
MSFでソーシャルワーカーとして活動している

ハサン・スーガル・タコイは1987年、ソマリアのキスマヨ生まれ。5歳で家族とともに内戦を避け、ケニアダダーブ難民キャンプ群の1つ、ダガレイ難民キャンプにやって来た。2011年に国境なき医師団(MSF)の通訳となり、現在はソーシャルワーカーを務める。

ソマリア内戦を逃れた体験と、2016年11月までにダダーブ難民キャンプ群を閉鎖するという先ごろのケニア政府の発表について聞いた。

ダダーブ難民キャンプ群は約35万人が生活している世界最大の難民キャンプ。滞在者の大半はソマリ人だ。MSFは長年にわたってキャンプ内で医療・人道援助を提供。紛争下の祖国を逃れて来る複数世代のソマリ人を受け入れてきた。

記事を全文読む

父を殺害され、村を離れて

ハサンの一家が避難を決意した頃のソマリアの都市
(1992年撮影)

ソマリアを離れた1992年、私は5歳でした。いきさつはあまりよく覚えていませんが、内戦は非常にはっきりと覚えています。

女性が性暴力の被害を受けているといううわさが広がり、母は何度もブッシュに隠れていました。一度、数人の男たちに見つかり、殴られて気を失ったこともあります。

父は避難中に殺害されました。正体不明の武装集団に襲われたのです。近所の人たちもやられ、家畜を1頭残らず奪われました

私たちは母に連れられ、情勢がやや落ち着いている村に転居しました。その村で、みんなが国境の向こうのケニアの町リボイに逃れていると耳にし、私たちもついていくことに決めました。

深い傷が生み出した憎悪

ハサンが5歳でやってきたころのダダーブの様子
(1992年撮影)

リボイに到着して10日ほど滞在した後、移されたのがダダーブのダガレイ・キャンプです。テント1張と生活用品が配られました。私たちは“難民”になったのです。

ダガレイまでの道のりは今思い返しても大変でした。誰もがおびえていました。みんなおなかをすかせていて、夫を殺害された母は気を落とし……。

母は私たちに当時のことを話すたびに泣き出しました。目にするのもつらい姿でした。いたたまれなくなった私は、よくテントを飛び出して外で泣いていました。でも、母のために私が強くならなければと思い返しては、テントに戻って母の手を握りました。

近所の人びともやって来てなぐさめてくれましたが、母は誰も信用しませんでした。父を殺した犯人が難民の中にいると疑っていたからです。そのせいで、ダガレイでの私たち家族の生活はより困難なものとなっていました。

母の死で孤児となる

つらい時期でした。私のような目に遭う人間が1人でもいてはいけません。戦争から逃れ、飢えから逃れ、憎悪から逃れ……。ひどい人生です。

母は2003年に亡くなりました。ある時、胸の痛みを訴え、その数ヵ月後にひどい頭痛が起きたのです。体調は日に日に悪くなり、血を吐くほどになってしまいました。最期の3ヵ月は寝たきりでした。当時、私は未成年で、母はまだ50歳でした。母の死で、私たちは孤児の難民となりました

「強制的な帰国は非人道的」

ダダーブの近況(2013年撮影)

ケニア政府がダダーブを閉鎖すると発表したことに、私はいら立ち、ショック、不安を感じています。怒りで身体が硬直したほどです。ソマリアに帰国したとしても安全とは思えません。武装勢力に無理やり引き込まれるかもしれません。どうしようもなく不安です。死にたくありません。まだ29歳なのです。

ダダーブの閉鎖は全難民に影響を及ぼします。例えば、高血圧の治療を受けている患者は、ソマリアに帰国すれば容体が悪化して亡くなってしまうでしょう。あるいは、妊婦のケアや周産期の死亡を防ぐ医療も期待できません。

子どもたちは必要な予防接種をすべて受けられるでしょうか。はしかの流行などへの備えはあるでしょうか?多くの難民が帰国を始めていますが、それが感染症の温床となる可能性も否定できません。

ケニアとソマリアの両政府、それから国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)と国際社会に人権と難民の権利の尊重を求めたいと思います。強制的な帰国は非人道的です。私はダガレイが故郷だと思っています。

関連情報