イエメン:紛争地で救命救急病院を立ち上げ――MSF日本人医師の現地報告

2016年01月15日掲載

紛争が続いているイエメンには、国境なき医師団(MSF)の日本事務局からもスタッフを派遣しています。渥美智晶医師(外科医)もその1人。2016年1月9日に首都サヌアに到着し、活動拠点へ移動する予定だったところへ、北部でMSF病院が爆撃されたとの知らせが飛び込んできました。現地からの報告です。武装勢力に包囲されている地域に入り、病院訪問を行ったMSFのノーラ・エシャイビ看護師からの報告とあわせてお読みください。

紛争地で活動することの厳しさと努力/渥美智晶(外科医)

  • 2016年1月10日執筆
MSFの渥美智晶医師 MSFの渥美智晶医師

私は2016年1月9日に、首都サヌアに到着しました。事前にスイスのジュネーブにある事務局でセキュリティー面などの説明を受け、前任の外科医などと現地の状況や業務についての確認を行いました。その上で、カナダ人の麻酔科医と一緒にMSFの小型機で現地入りしました。

到着した空港の滑走路には、破壊された機体が放置されたままでした。空港から車でサヌアの中心街を抜けてMSFの事務所に到着しました。その2日後、南部にある活動拠点へ向かう予定でした。首都近郊では毎夜、空爆が繰り返されています。寝ていると爆音が聞こえ、時には窓が音を立ててゆれることもあります。

到着した翌朝、1月10日の会議で、北部でMSFが支援している病院が爆撃されて負傷者が出ていること、南部の都市でも同日爆撃があったこと、いずれも詳細は不明であることが説明されました。いまさらながら紛争地で活動することの厳しさを感じました。結局、出発は1月13日に延期となりました。

MSFの小型機で活動地へ MSFの小型機で活動地へ

活動地では、救命救急を主としたMSF病院の立ち上げにかかわることとなっています。その準備と現地スタッフの研修が当初の仕事となるでしょう。手術が実際に行えるようになるまでには、時間がかかりそうです。

活動プログラムの立ち上げについては、2013年のフィリピン台風災害で経験があります。災害や紛争地区でのプロジェクト開始では、外科医といえども外科治療という医療面だけに没頭すればよいわけではありません。さまざまな制約があるなかで、皆で助け合いながら物資の運搬、セッティング、その他、各スタッフが日本では決して行うことのない業務などもしなくてはならない状況が出てきます。

目まぐるしく状況が変化しているイエメンで、出発までの間、現状のレポート、セキュリティーに関わる最新情報、活動に必要な物品リスト、MSFのマスカジュアリティー(※)対策のチェックを行っています。治安上の理由で、首都サヌアでも活動地でも外出は一切禁止ですが、力を尽くしたと振りかえることができるように努力します。

  • 災害や事件などで負傷者が一斉に運ばれてくる状況

包囲地域の医療現場を訪問して/ノーラ・エシャイビ(看護師)

国境なき医師団(MSF)のノーラ・エシャイビ看護師は、2015年にイエメンに入った。アデン、サヌア、カタバ、アッダリでの活動を経て、南部の都市、タイズに赴任した。紛争の最前線となっている地域の1つだ。現地の状況と取り組みを聞いた。

包囲地域の医療現場を訪問して

MSFのノーラ・エシャイビ看護師 MSFのノーラ・エシャイビ看護師

タイズは武装勢力「フーシ派」による包囲が続いています。MSFは2015年9月以降、包囲地域での医療・人道援助を目指しながら実現できていませんでした。年が明け、2016年1月3日に再度、現地入りを試みました。今回は初めて、物資をなにも持たずに出発しました。

前線は移り変わっていました。そのため、以前とは違うルートで、はるかに長い距離を移動しなければなりませんでした。2度呼び止められましたが、どうにかビル・バシェル市場にたどり着くことができました。そこに駐車してから最後の検問所を通過し、徒歩で包囲地域に入る準備をしました。許可を得るにはこの方法しかありませんでした。

検問所で発砲音!

この検問所を通過する人は多く、現場は混乱していました。世界食糧計画(WFP)のトラックも足止めされていました。女性の一団がMSFにまぎれて通過しようと試みました。手続きが早まると期待していたのでしょう。通過できるまで数時間から数日も待たされている人もいるのです。検問所は家族を離れ離れにしてしまっています。一部のMSFスタッフもその影響を受けています。結局、女性の一団は呼び止められてしまいました。

私たちは検問所を通過したところにミニバスを手配していたのですが、考えることはみな同じでした。そのため、ミニバスが何十台も待機していました。突然、すぐ近くで銃声が聞こえました。空に向けての発砲だと思いますが、確かではありません。私たちは一番近くのミニバスに乗り込み、急いで現場を離れました。

傷だらけの建物、暮らしを続ける人びと
空爆で破壊された学校(2015年7月撮影) 空爆で破壊された学校(2015年7月撮影)

検問所から離れると辺りは静かになりましたが、建物は紛争の傷跡だらけでした。倒壊したもの多くありました。前線だった場所は特にひどいものでした。ただ、路上で談笑したり、市場で買い物をしたりしている人もいました。砲撃や爆撃が毎日ある状況でも普段どおりの生活を続けようとしていて、それが雰囲気をいくらか和らげていると感じました。

包囲の影響は明白でした。物価は急騰しており、前線があった地域の人口は明らかに減っていました。電力の供給は止まっていました。発電機を持っている人はわずかで、その中でも発電用の燃料まで確保できている人はさらにわずかです。そうした状況でも、人びとは"外部から援助に来てくれた人"ということで私たちの訪問を喜んでくれて、私たちにお金をださせるつもりはないようでした。

麻酔薬も酸素ボンベもない

アル・タウラ病院に到着した私は、前回に来た9月と比べて患者が少ないことに驚きました。医療活動は激減していたのです。医療物資は限られていて、特に麻酔薬が不足していました。発電機用の燃料もほとんどありません。さらに、酸素ボンベがごくわずかしか残っていませんでした。同じイエメンでも、アデンに拠点を置く国内の慈善団体は酸素ボンベを30本確保し、当面、アデンの病院で集中治療室の一部再開にこぎつけていました。しかし、包囲されているタイズのアル・タウラ病院には、補充がないのです。

アル・ラウダ病院、アル・ジュムフリ病院、イエメニ病院、アル・モダファル病院、タアウン病院なども同じ状態でした。包囲地域外にあるMSFの倉庫には援助物資が用意できているのですが……。活気に満ちていた病院が静まり返り、見るのもつらい光景でした。

わずか2km先にMSF病院があるのに……
MSFが支援しているアル・タウラ病院(2015年7月撮影) MSFが支援しているアル・タウラ病院
(2015年7月撮影)

アル・ジュムフリ病院の産科病棟では、入院患者は女性1人と赤ちゃん3人だけでした。赤ちゃんの1人は酸素吸入が必要でしたが、つながれている装置には酸素ボンベも取り付けられていませんでした。1本も残っていなかったのです。非常にもどかしい思いでした。わずか2km先にはMSFが運営している母子保健・産科病院がフル稼働しているのに、包囲地域の人びとは到達できないのです。

夜になり、私たちは招待してくれた外科医のアパートに泊まりました。包囲地域の外にいる私は、ロケット弾が発射されて飛んで行く音ばかり聞いていました。包囲地域内では逆に、ロケット弾が飛んでくる音ばかり聞こえてきます。アパートの近くに爆弾が落ちた時には、地面が2度ほど激しく揺れました。

翌朝も砲撃は続いていました。しかし、私が目を覚ましたのは飛行音でした。包囲地域外の住民はどこが標的になるのか分からないため、飛行機が飛ぶと警報を発令していました。一方、包囲地域内の住民は、標的がここではないことを知っているので慌てたりはしませんでした。飛行機は2時間も頭上を旋回していましたが、私たちは病院訪問を続けました。ちょっと変な感じでした。

訪問を終え、検問所から再び包囲地域の外へ出ました。対面側では、数人が手押し車に小麦粉の袋を乗せて運び込んでいる様子が見えました。この日は比較的、検問所を通過しやすかったそうです。私たちにとってはさらに楽でした。包囲地域から出るほうが、入るよりずっと簡単なのです。

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