ペルー地震:緊急コーディネーターの手記(1)

2007年09月12日掲載

スペイン人看護師のルイス・エンシーナスは、8月中旬に発生したペルー地震後に援助活動を開始した、国境なき医師団(MSF)緊急援助チームのコーディネーターである。40人からなるこのチームには、医師、看護師、心理療法士、ロジスティシャン、水・衛生担当の技術者が参加している。地震発生当日、エンシーナスはコロンビアのボゴタで活動していた。発生から2日もたたないうちに、彼はチームと12トンの援助物資と共にペルーに向かっていた。最も被害が大きかったピスコに到着してまず初めに感じたのは、まるで爆撃を受けた町のようであるという印象だった。

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2007年8月15日(水):コロンビア沿岸で発せられた津波警報

患者を治療するエンシーナス看護師 患者を治療するエンシーナス看護師

この日はヨーロッパと中南米の大部分の国では休日だが、ボゴタでは普通の就業日だ。もっとも完全にいつも通りというわけではなかった。夜に友達2人と出かけていると電話がかかってきた。地震か津波か、何かが発生したというのだ。コロンビア沿岸にも危険が迫っているようだ。とにかくどのメディアもこのニュースを報道しており、コロンビアの太平洋沿岸では人びとを守るために、徐々に避難が進められていた。

夜遅かったのでいつも通りに床に着いた。翌朝には事態の全貌が明らかになった。ペルーのピスコで地震があったのだ。死者が4、5人、負傷者が数十人とのうわさもあったが、なんといってもマグニチュード7.2という規模の大きさだ。その朝報道されたニュースには多少の誤報も混じっていたが、犠牲者の数はどんどん増加していった。コロンビアの別の地域で私と同じ医療コーディネーターとして働いているセリアに、何度も電話をかけた。ようやく電話がつながり、MSFが何か援助を行う予定があるか知っているかと尋ねた。その日の午前中はずっと情報収集に努めた。ペルーのMSFチームも、イタリアの支部も私に連絡を取ってきた。状況を把握するためにチームが調査に派遣される。ボゴタにおける活動責任者であるベルナールと連絡を取り、準備が整い始めた。私たちはMSFが提供できる活動内容、動員できる物資を確認した。次々に細かな案件が押し寄せてきたが、それでもあらゆる動きがあまりにも遅すぎると感じていた。何マイルも離れていても、緊急事態であることは分かる。ベルナールも、ペルーのアリスも私に電話をかけてくる。電話がよく聞こえない。それでもわれわれの準備は整いつつあった。地震の実態が明らかになるにつれ、その結果は愕然とするものだった。死者54人、負傷者数十人で100人にまで増える可能性もある。電話をかけまくり、すべての手はずを整えた。12トンの物資を載せるチャーター機を用意し、活動を開始させる。携帯電話でずっと話し続けていたので、耳がひどく疲れている。これから数日間は、このような作業をまだまだこなさなければならないのだ!

やっとすべての準備が整った。ゴーサインを得るためにMSFのイタリア支部に連絡しなければならない。私は時計を確認した。午後7時ということは、欧州では朝の2時である。貨物輸送機を日曜日の朝8時半に離陸させるには、予約の期限は金曜日の午前6時だ。そこで自宅で自分のアドレスから電子メールを送ることにした。メールのタイトルには「カルラ、至急電話をください。緊急」と書いた。「緊急」という言葉が耳でこれほど大きく鳴り響いたことはなかった。あっという間に時間が過ぎ、もう一度腕時計を見ると午前2時だった。私はベッドにもぐりこんだ。再び電話が鳴った。寝てからほんの数秒しかたっていないように思えたが、時計をちらっと見ると朝の4時半だった。表示された電話番号は、ベルギーの国番号32のようだ。MSFによる援助活動の開始に正式な許可を出すマーティンからの電話だった。万事準備完了した今、ベッドに寝てはいられない。起き上がると行動を開始した。対応すべき緊急事項は駆け足で舞い込んでくる。人員の身元確認、MSFのさまざまな部署が集まる緊急対策会議、いつもながら生じるいくつかの複雑な不測の事態。あらゆることが、これまでの活動での状況を思い起こさせる。これは前にも経験したことがある。医師2人、ロジスティシャン2人、看護師2人、チームの責任者1人。とにかく第一陣のチームは揃った。パナマから着いたばかりのフィリップは、状況を把握していないようだ。いったんすべてが進行し始めれば、2分後には彼がボゴタのロジスティックと物資の責任者となる。コロンビアの活動責任者であるクリステルがつかまらないので、他のメンバーに出発をことづけ、われわれは飛行機に乗り込んだ。

8月18日(土):喪に服したリマが示した心からの歓迎

わずか3時間でリマに到着する。どんよりとした空に灰色の雲が垂れ込め、紅白のペルーの国旗が半旗の位置に掲げてある。人びとが受けたショックがありありと見える。どの人の顔にも事細かに衝撃の色が浮かんでいるのだ。カリャオ地区を通り抜けて、緊張した気持ちでミラフロレスに入る。今日は土曜日で、大通りにはネオンの点滅するカジノが並んでいる。その真ん中でスーパーマーケットの前に地震の被災者のために援助物資を集めているトラックがいた。背筋がぞくぞくする。死者80人以上、負傷者300人という数字を見ればおのずと明らかだが、それでも現場の実情をまだ想像できないでいた。ピスコ、チンチャ、イカの町は半壊しており、荒廃ぶりについて語る人もいれば、通りの狂乱状態を話す人もいる。その時、一度、二度と揺れを感じた。23秒間の揺れは永遠に続くように思われた。赤信号で止まっていると、タクシーの運転手が安心させるように言った。「今の揺れはきっとトラックが通り過ぎただけですよ。」運転手は辺りを見回して、通り過ぎたトラックはないかと探した。私も探した。トラックもバスも見当たらない。揺れはますます強くなる。運転手は黙り込んで動かなくなり、空を見つめている。建物が崩れてくるのではないかと怖くなり、私も空を見る。運転手は後から、空を見て神様に助けを求めていたのだと教えてくれた。

MSFの事務所に到着して概況報告を聞き、3時間眠るとピスコに向かった。

8月19日(日):突然目に飛び込んできた破壊された町の惨状

地震で亀裂が入ったパンアメリカンハイウェイ 地震で亀裂が入った
パンアメリカンハイウェイ

道のりは遠く、長い時間がかかった。初めの45kmは現地の人が「パンアメリカン」と呼ぶ高速道路を料金所を縫うようにして進んでいく。それから突然、交通量が多くなり、渋滞で動けなくなってしまった。渋滞より先で何が起きているのか見ることができなかったが、私たちには見当がついた。少なくとも私たちはそう考えていた。

道はまるでハリウッド映画に出てきそうな状態だった。巨人の手が消えないインクで描いたかのように、完全な直線に沿って割れていた。地震で生じたこの線はだんだんと幅広くなっている。われわれは停止した。右手には太平洋が見える。風が激しくなっている。車が少し揺れ、この辺りでは驚くような突風が吹くことを思い出した。でもこの揺れは風ではなく、車が本当に揺れている。揺れは地面からきていて、新たに地震が起きているのだと気づいた。幸いにも地震だと分かったときには収まっていた。

チンチャアルタの町に到着して初めて、今回の地震がもたらした被害の実態を目の当たりにした。言葉を失うほどの状況だった。われわれは南へと進んだ。すでにピスコに入っていたロレトが、山岳地帯も被害を受けているらしいと電話で伝えてきた。ぐずぐずしている暇はない。しばらく考えてピスコに行く前にこの地域を調査することに決めた。その日は驚きの連続になるという予感があった。その予感は当たった。

初めに訪れたのはインデペンデンシアで、具体的には約200人が暮らすホセオラヤという村だった。3人の人が地面に座り込んで入り口を封鎖していた。地震発生から2日を経ているのに、現地で「olvidados」と呼ばれて取り残されている人びとは、ほぼ何の援助も受けていなかった。基本的な物資も配給されていない。村人を安心させようとしたが、かける言葉がなかなか浮かんでこない。親身になって接しようとしたが、彼らの立場になって考えるほど、彼らの攻撃的な態度や絶望感がよく理解できる。必ず戻ってくると約束したが、まずはこの地区で起きた被害状況の把握に取り掛からなければならない。これから訪れる場所にもさらに驚くべき状況が待っているだろう。インデペンデンシア、ウマイ、モンテシエルペの町では、どこでも同じ光景が見られた。倒壊した家、崩れそうな建物、絶え間なく続く余震、不安感、見捨てられたという気持ち。この状況に加え、地域社会の活動の中心である教会はもはや影も形もなく、残っているのはわずかなレンガだけだ。いまだに形をとどめている出入り口は荒涼とした廃墟へと通じており、このような廃墟の実態を私たちはまさに把握しようとしている。このため人びとは自宅で祈りをささげている。正確に言えば自宅の残骸であり、例えばマットレス一つ、高く積まれた木片の山が二つ、ビニールシートといった具合だ。ゆっくりと夜になるにつれ、気温も徐々に下がる。焚き火が生命、生存の証となり、そこを集合地点として人びとが交代で夜警を務めている。略奪が始まったのだ。

ピスコ、さらに待ち構えていた最悪の被害

ピスコの町はもはや原形をとどめていない。まるで架空の戦争映画に出てくる戦場さながらだ。だが監督がいるわけではなく、俳優はみな現実の人間である。活動範囲の計画、活動の調整など、すべての事項を把握するのに苦労する。一部屋に4人で寝ていたのが6人になり、中には床で寝る者もいた。今は1人1.5リットルずつのペットボトル入りの水(この上もないぜいたくだ)で身体を洗っているが、ゆくゆくは別の手段を見つけなければならない。

ここ3日間はほとんど眠れなかった。ベッドへ倒れこんだが、2時間ごとに揺れが続いた。まるで、この地域では本当の力がどこにあるのかを思い出させるかのような揺れだった。

永遠に続くように思える週末

1日を管理しやすい単位でいくつかに分割できるようになりたい。準備することがあまりにも多くあるが、時間を割いて町を歩いた。病院前やアルマ広場にある遺体が放つ悪臭で、目を開けているのがつらくなった。においではなくて風のせいで寒気がしているように見せかけようと襟を立てた。どうしても我慢できなかったのだ。私は歩き続けた。地震の揺れも続いている。自分の身を守るために辺りを見回した。だがほとんどすべての建物がすでに崩壊していた。私は道の真ん中で立ち止まっていた。蒸気の上がる圧力鍋の上に立っているような感覚だ。この辺りの住民も同じ不安を感じている。余震が新たな恐怖を呼び、先の地震を思い起こさせ、常に忘れることができない状態に置かれている。

文章を書くのがつらく、とにかく集中することができない。目はここについているのに、頭がどこか別のところにあるようだ。一番初めに見た建物の正面のことを考える。優雅にまっすぐそびえるその後ろには、戦場のような廃墟が隠れていた。死にそうなぐらいくたくたに疲れていた。今日はほとんど書くことができないだろう。あまりにも疲れすぎて、目が動かなくなっている。今日ミッキーと鉢合わせになったとき濡れたタオルをくれたので、それで体をきれいにした。本当に助かった。明日はできることなら、日記をつける時間をとりたいと思う。

緊急コーディネーターの手記(2)はこちら(8月20~24日)

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