ペルー地震:緊急コーディネーターの手記(3)

2007年10月02日掲載

スペイン人看護師のルイス・エンシーナスは、8月中旬に発生したペルー地震後に援助活動を開始した、国境なき医師団(MSF)緊急援助チームのコーディネーターである。40人からなるこのチームには、医師、看護師、心理療法士、ロジスティシャン、水・衛生担当の技術者が参加している。地震発生当日、エンシーナスはコロンビアのボゴタで活動していた。発生から2日もたたないうちに、彼はチームと12トンの援助物資と共にペルーに向かっていた。最も被害が大きかったピスコに到着してまず初めに感じたのは、まるで爆撃を受けた町のようであるという印象だった。

緊急コーディネーターの手記(1)はこちら(8月15~19日)

緊急コーディネーターの手記(2)はこちら(8月20~24日)

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8月25日(土):忘れられた誕生日?

今朝、目が覚めて、配車表に手書きされた日付が目に入ったとき、何かがおかしいことに気づいた。はじめは、それが何なのか分からなかった。今日は土曜日。私たちがここに来てから2回目の土曜日だ。朝食のため、皆がテーブルに集まる。以前使っていたテーブルは小さすぎて、もう一つテーブルが必要になった。今では私たちのチームは30人近くになり、誰もが日々の仕事に忙しく飛び回っている。でもこの時の話題は、翌日の日曜日、つまり私たちの休養日のことだった。突拍子もないアイデアが飛び出し、みんな笑いこけた。午前7時30分、誰もが翌日のわずかな休息のことを頭の隅におきながら、それぞれの仕事へと向かっていった。デイビッドとステファンはイカの町に行って病院の状況の調査を行い、ゾーラとミシェルは心理ケア対策を続行する。皆それぞれのチームとともに、優れた仕事をするだろう。フィリップは引き続き、毛布や衛生キット(石けん、シーツ、病人用の便器)の配布を実施する。ロレトと医療チーム全員は、移動診療を続行する。私はもう一度、配車表に目をやった。何もおかしなところはなかったが、やはり何かひっかかる。私は、報告書を仕上げ、総合的な戦略をまとめ、新たなプログラムを構想するため、今日は事務所に残る。午前10時、チームはみな出払っていた。フランソワは私と同じ部屋に落ち着き(各グループに部屋が割り当てられ、各部屋にはパラカス半島沖に浮かぶバジェスタス島の名前が付けられている)、私たちの活動の全体像をまとめる準備をしている。もう一度配車表を見ると、日付が昨日のままだった。昨日の日付を消し、フェルトペンで今日の日付、8月25日と書いた。その時突然、昨日は自分の誕生日だったことに気づいた。その日付を目にして、とても奇妙な気がする。

午後遅くなって、デイビッドから電話があり、病院の現状調査は終わったという連絡があった。しかし、イカからパンアメリカンハイウェイで10分ほどのところにある、人口およそ1万人の町グアダルーペは、未だに最も必要とされる生活必需品すら不足している状態だという。デイビットは私たちのいる拠点から30分ほどの距離の場所にいる。彼の経験値から判断すると、彼の説明からは最悪の状態が想像された。私はゾーラ、ロレト、フランソワと一緒に集合した。私たちの準備は、20分とかからない。いま一度、万事準備完了で即出発だ。現地の悲惨な状況を目にし、私たちはグアダルーペを最優先とすることに決めた。夜のミーティングで、活動報告をする。休息の日曜日は延期となった。これは緊急事態だ。みんな準備万端である。

8月26日(日)、8月27日(月)、8月28日(火):日々同じ闘い、同じ意志

グアダルーペにおける訪問治療の様子 グアダルーペにおける訪問治療の様子

グアダルーペには何かがある。いくらがんばっても理解できない何かが。町の中心部には、荒廃した空気が漂っている。実際、すべての家屋は破壊されていた。人々は地べたや屋外、段ボールや古いぼろ切れでつくった屋根の下などで生活している。地震が起きてから2週間近く経つのに、あたかも昨日地震が起きたばかりのようだ。何度か、食料と水の臨時配給が行われていた。奇跡的に、診療所は残っていたが、スタッフは疲れきっていた。1週間以上、なんとか立ち直ろうと奮闘する間、診療数は3倍に膨れ上がった。医師は気力を使い果たしていた。目に涙を溜め、「抜け殻です」と私に言った。診療所は、精神面を保護する避難所のようになっていた。町長も診療所にいるが、彼もまた、なかなか気持ちを集中させることができないようだった。

住民たちは、見捨てられたと感じている。後になって知ったことだが、母親と幼い娘が部分的に破壊された家屋の下に何時間も閉じ込められたが、生き延びていたという。2人はその場しのぎのベッドに横たわっている。母親の脚は腫れ上がり、片方は曲がっている。彼女の5歳の娘ウェンディは、両脚から腰までを覆うギプスをしていて、そのギプスからは、尿と、傷からの臭いが漂っている。地震の翌日、彼女の夫が2人をイカの病院に連れて行ったが、そこは完全に混乱状態だった。彼らは1時間半かけて、12km先の病院にたどり着いた。2時間ほど病院にいた後、命に別状はなかったため、家に帰された。私たちはその後数日間で、同じような状況の患者9人に出会った。彼らは骨盤や上腕骨、腰椎を骨折している。長い3日間、私たちはグアダルーペを最優先にひたすら活動した。メディアがここにいたら、「忘れ去られた人々」を報道できると大喜びだろう。

9月第1週:新たな月、同じ悪夢

ピスコの病院にて ピスコの病院にて

今朝、カレンダーを見て月が替わったことに気づいた。だからといって特別大きな変化があるわけでもなく、日々は続いていく。私たちの活動は、わずかずつながら前進しているようだ。だが、私たちはいつも、さらに、もっとやりたいと思っている。各チームの仕事量は変更された。コーディネーターは毎朝6時に集まり、それから各自のチームとミーティングを行う。これは彼らの活動の中心である。だが今回は、日曜日を休息日とすることが決まった。休みなんてダメだという人にとっては、残念!私たち全員が、とても必要としているのだ。どんなことをしても、パラカス自然保護区への観光ツアーに行くつもりだ。

こうして、チームの大半が2台のレンタカーに分乗し、気ままで陽気な日曜日の冒険に出発した。しかし、自然保護区に到着すると、入場を断られてしまった。警備員がきまり悪そうに、「すべて破壊されてしまい、見るものは何もありません。それに、治安上、入場していただくわけにはいかないのです」と言う。私たちは、港にある観光客用の桟橋へと向かった。バジェスタス島への出発地となるここで、私たちは赤十字国際委員会の人たちと会った。彼らも、同じことを考えていたのだ。2時間の船旅だった。私は目を閉じた。ピスコの街と、その港サン・アンドレスが見える右舷側は、あえて目を向けなかった。そこには、破壊と喪失の光景が広がっていた。過去、未来、所有物、思い出の喪失、そして幸せの喪失・・・私は目を閉じ、漠然と、ガイドが説明していることに集中しようと試みた。少ししか理解できない。しつこい耳感染がまだ治らず、聴力が落ちているのだ。ガイドは、燭台の話やオットセイの話、4~5年毎にやってきて鳥の糞を集め、肥料にする人々の話をしていた。私は再び目を閉じて、一瞬だけ現実から逃れた。海の空気は私に効くようで、元気を与えてくれた。

ピスコでの最後の週

日記をつけるといつも、自分たちの仕事は制約と困難ばかりだが、満足感があり報われると書いてしまう。でも、今日は少し違う。アイデアの大半については、まだ話し合いが必要だ。私たちは挑戦し、活動し、何かを生み出してきた。リスクを負い、ゼロから何かを作り上げ、前進するためにこの組織の中心で活動を続けているのはおそらく、個人的に大きな満足感が得られるからだ。たとえ、後から考えれば、必ずしも正しい判断ではなかったと気付いたとしてもである。創造的な任務だからこそ、いつだって一人一人の活動を例としてとりあげたいと思っている。簡単な任務ではない。(これまで簡単な任務などあっただろうか?) でもやりがいがある。いま取り掛かり始めた挑戦もリスキーなものだ。ピスコ中心部に、複数の機関が合同で運営する外傷治療、心理ケア、リハビリなどを提供する総合診療所を設置しようと準備しているのだ。このような診療所が必要なことは明らかで、ピスコ病院の院長がすぐに参加してくれた。でも、活動で最も難しい部分はこれからだ。現在リマの10ヵ所の病院に入院している約800人程度の患者は、家に帰らなければならない。あらゆる意味で世界から「見捨てられた」町に。

9月7日(金):任務終了、次の任務へ

おととい、コーディネート業務を後任のフランツに引き継いだ。私はリマに戻り、この任務は、将来自分が果たすべき任務に向けた準備となった様に感じた。結局、いつでも、充足感を感じて終わる。

コロンビアの首都ボゴタに戻る道中、ピスコでは現実から全く切り離されていたことを思い出していた。今は、現実に引き戻され、3週間前に活動を開始して以来、どれほど多くの任務を成し遂げてきたかを実感した。気付かないうちに毎日が過ぎていた。もう何ヵ月もいるような感じがした。でも、そうではなかったのだ。私は「学んだこと」を書き留める。これは、私の人道援助活動の一部として、「条件反射」的に自然とそうしている。ボゴタに着いた。白紙の状態で、また活動開始だ。結局どこにいようが、自然災害はいつだって起こりうるのだと自分に言い聞かせた。精神面でも、身体面でも、物質面でも備えをしておかなければならない。ボゴタについてすぐインターネットに接続したら、43通の新着メールが届いていた。そのうち40通は、このところ「医療面で見捨てられている」コロンビアでのプログラムに関するものだった。ページはめくられた。ペルーのプログラムはもう安心だから。

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