ルワンダ/コンゴ民主共和国:大虐殺から20年、隣り合う町はいま......

2014年05月02日掲載

MSFの活動責任者を務めていたレイチェル・キデル=マンロー(左、1994年ごろ) MSFの活動責任者を務めていた
レイチェル・キデル=マンロー(左、1994年ごろ)

2014年3月末、20年ぶりにルワンダを訪れました。1994年、ルワンダ大虐殺の最中とその後のしばらくの間、私(レイチェル・キデル=マンロー)は、国境なき医師団(MSF)の活動責任者を務めていました。その時の体験が、私を完全に変えてしまいました。純粋だった私は、あの地で死んでしまったのです。

1994年4月から5月の2ヵ月間、ルワンダから国境を越えてすぐの場所に位置するコンゴ民主共和国(以下、コンゴ)のゴマで、難民を受け入れる業務に当たっていました。

あの恐ろしい大虐殺を免れた人はほとんどいませんでした。100日間で、80万人もの人が殺されたのです。川は切断された遺体でいっぱいでした。ほとんどの遺体は頭部が切り落とされていました。切り落とされていなかったのは、1ドル支払って射殺されることを選んだ人びとの遺体です。

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再訪――静かに涙を流すとき

ルワンダの首都キガリの孤児院内に開設されたMSF診療所(1994年4月、大虐殺の開始直前) ルワンダの首都キガリの孤児院内に開設された
MSF診療所(1994年4月、大虐殺の開始直前)

再訪――静かに涙を流すとき

今回ルワンダを再訪した時、私の中のイメージは当時のままでした。でも、首都キガリに到着した私の目に映ったのは、車の往来も激しく、商業も活発で、人びとが自立した生活を送っている繁栄した都市でした。終末の時を迎えたゴーストタウン、銃弾、流血、急ごしらえの墓、死と恐怖が重々しく漂っていたルワンダは、もうはるか昔のことのようでした。

キガリの北西部に位置する都市ルヘンゲリに行くと、かつてMSFが運営していた病院が美しく活気のある総合病院に生まれ変わり、一般的な治療が行われていました。大虐殺の時に、何週間にもわたって運び込まれてきた人びと……戦闘や地雷で負傷した人びとの姿はもうありません。ただ、心的外傷を今も抱えている人びとがいます。それが彼らの恐怖体験の唯一の証拠になっています。

この小国を飲み込んだ憎悪の記憶として残されているのは、いくつもの簡素な記念碑と集団墓地。MSFで働いていたルワンダ人スタッフも、1994年4月から5月の2ヵ月間で数百人が命を奪われました。今回の再訪の目的は、彼らのお墓にお参りして敬意を表すことでした。

集合墓地は、病院の向かいにあるブタレ大学の敷地内にありました。簡素な記念碑には、亡くなった人びとの写真が貼られていました。私は、静かで美しいこの場所で、ようやく泣くことができたのです。

暴力、避難、貧困しか知らない

国境を越えてコンゴに入国した私が目にした光景は、ルワンダの平安と驚くほど対象的でした。かつて小さな街だったゴマは、キブ湖沿い人口100万人の騒々しい都市となっていました。

100を超える国際人道援助団体の存在も景気に刺激を与えていました。ゴマは暑く、ほこりっぽく、汚い混沌とした街です。黒い火山岩だらけで、2002年に噴火した活火山にあることを意識せずにはいられません。

ゴマを少し離れると、でこぼこの道路からは丘の斜面や沿道に散在する避難キャンプが見えます。その場しのぎの小屋が並び、滞在している避難者はこの地域だけで数十万人にのぼります。その約80%が、ゴマの北部にある美しい山岳地帯マシシ地方で起きている紛争と暴力から逃れて来た人びとです。

私はマシシにも足をのばしました。1996年以来初めてでしたが、私の記憶とは全く違う場所になっていました。私がいた当時は、紛争が始まったばかりでした。現在のマシシは完全に暴力に染まり、人びとは何度も避難を繰り返しています。

警察署の前を車で通り過ぎる時、男性が殴られている音や声が聞こえてきました。痛みと怒りで悲鳴あげる男性を、外にいる子どもたちが笑っていました。この子たちは、暴力、避難生活、貧困しか知らないコンゴの新世代なのです。

家で死ぬか、森で死ぬか

コンゴ民主共和国・北キブ州の避難キャンプ(2013年) コンゴ民主共和国・北キブ州の避難キャンプ(2013年)

マシシでMSFが運営する病院に到着すると、救急処置室ではぐったりとした赤ちゃんが苦しそうに息をしていました。医療スタッフが重症肺炎の治療を開始していました。村で戦闘が激化したため、母親は他の6人の子どもと赤ちゃんを連れて逃げ、森に隠れているうちに病気になったようでした。

母親に聞くと、避難キャンプに1年間滞在した後、最近になって子どもたちと村へ帰ったそうです。でも紛争が再燃し、また逃げなければなりませんでした。食糧も住む場所も、医療を受ける機会も、容赦ない蚊の攻撃や激しい雨から身を守るすべもありません。4日後には村に戻りました。森の中で死ぬより家で死にたいと考えたからだそうです。

赤ちゃんの容体は悪化していましたが、村では診察を受けることが出来ません。彼女の村にあったMSFの診療所は襲撃され、医薬品も略奪されてしまっていました。母親は意を決し、幼い子供たちを連れてマシシ病院までの遠い道のりを歩くことにしました。MSFスタッフが途中で彼女たちを見つけたのは幸運でした。もう1日長く雨の中を歩いていたなら、赤ちゃんの命はなかったかもしれません。

"忘れ去られた人びと"に援助を

これは、コンゴ東部の激しい紛争を逃れて避難生活を強いられている170万人のうちの1家族の話です。過去20年間にわたり、繰り返し避難を余儀なくされ、元より少なかった所持品を1度ならず何度も手放さざるを得なかったコンゴ人の窮状はあまり知られていません。MSFは、コンゴ東部で活動を開始した1992年から、この"忘れ去られた人びと"に緊急医療援助を提供しています。

コンゴ東部に暮らす人びとにとっては、毎日が緊急事態です。MSFは定期的に、はしかやコレラの流行に対応しています。つい最近は、腸チフスの流行で多くの命が奪われました。地元の医療施設は機能しておらず、保健医療は絶望的な状況にあります。

ルワンダ大虐殺が起きた20年前に思いを馳せつつ、コンゴの現状と緊急事態に日々直面しているコンゴの人びとにも目が向けられることを期待します。コンゴでは、毎日のように武装した男たちが市町村で略奪をして回り、住民は避難を繰り返しています。毎日のように、子どもたちが肺炎など予防可能な病気で命を落としています。毎日のように、分娩で亡くなる女性たちがいます。皆、援助を必要としているのです。

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