特集3.11:被災地に新たな1歩――震災から5年

2016年03月10日掲載

2011年3月11日に東北地方で発生した、マグニチュード9.0の大地震と巨大津波。その甚大な被害に対応するため、国境なき医師団(MSF)は直後に緊急援助活動を立ち上げ、情報収集と先遣チームの派遣準備を開始しました。

あの日から5年。当時MSFが立ち上げた活動と、寄贈した施設や機材の一部は、今なお、岩手県宮古市と宮城県南三陸町で、地元の方々が大切に使われています。当時の活動を振り返りながら、支援を続ける方々と利用者の皆さんの声で、現地の今をお伝えします。

活動データ(2011年3~12月)

診療件数 4356件
救援物資配布 毛布:4030枚、飲用水:6500リットル、衛生用品キット:1万セット、生活用品キット:4000セット
医薬品・機材寄贈 医療物資:計11万ユーロ(約1300万円)相当、発電機:1台、貯水槽:2ヵ所、通院用バス:2台、車椅子用車両:1台
その他 避難所などの電気設備改良工事、仮設住宅建設支援、仮設診療所建設、医療機材寄贈

宮城県南三陸町

2011年夏、地元の社会福祉協議会に引き継がれたMSFの支援カフェ。今なお多くの方が集い、支え合いの場になっています。

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岩手県宮古市田老

5年前、MSFから宮古市に寄贈された仮設診療所。現在も現役で稼働する診療所は、今年その役割を新診療所に託します。

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東日本大震災5年:カフェと診療所、それぞれの未来へ

フォトギャラリー:カフェと診療所、それぞれの未来へ

2011年3月の震災直後から国境なき医師団(MSF)宮城県に入り、そこから北上しながら医療が届いていない地域で移動診療を開始しました。当時、活動拠点となった宮城県南三陸町と岩手県宮古市田老の、当時と今を写真でつづります。

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震災5年に寄せて ― 派遣スタッフの声 ―

加藤 寛幸/小児科医

加藤 寛幸/小児科医

あの日、テレビ画面に映し出された凄まじい映像は、5年経った今でも多くの人の脳裏に焼き付いているのではないだろうか。山形経由で陸路現地入りした私は、避難所での診療とニーズの調査を並行しながら三陸の海岸を北上した。日本国内に車両や薬剤を備蓄していない国境なき医師団(MSF)は、当初、現地のタクシーと徒歩だけを頼りに薬を背負って避難所を回った。

目にする景色はどれも想像を絶するものだった。家族を亡くしながら必死に避難所での診療を続けていた医師や看護師にかける言葉はなかなか見つからなかった。子どもと共に避難所に担ぎ込まれた母親は、頭に大けがを負って多量の出血をしていた。病院への搬送を決めて救急車に乗せようとすると、その母親はもうろうとする意識の中で「子どもを救急車に一緒に乗せてほしい」と懇願した。夫と親族が行方不明の状況で、子どもと離れることを恐れたのだろう。幸い一命を取り留めた彼女が眠るそば一人座る子どもの後ろ姿を忘れることはできない。

昨年から不定期ながら福島南相馬での救急診療の手伝いを始めたが、現地に入るたびに、決して癒えることのない震災の深い傷跡を思い知らされる。いまだに多くの母親と子どもたちは帰還していない。長く続いた避難生活によって家族がバラバラになってしまったり、仕事を失ってしまった多くの人たちは、未来への希望を持てない中で暮らしている。近々避難解除が予定されている地域もあるが、戻って来るのはお年寄りばかりだろうと、聞く。

小児科医として診療をしてきた中で、子どもを亡くした親の悲しみはどんなに時間が経っても決して癒されないということを学んだ。被災地に暮らす彼らの5年間は苦悩に満ちたものだったであろう。そして、その苦しみや悲しみの出口はまだ見つからない。私に出来ることは決して多くないが、これからも彼らに想いを寄せながら、震災を風化させてしまわないよう声を上げていきたい。

道津 美岐子/看護師

道津 美岐子/看護師

あの2011年3月11日から丸5年。私は、震災発生翌日から国境なき医師団(MSF)先遣チームの現地責任者として被災地域に入った。少ない情報のまま現地入りし、目の当たりにした現状は、私達の予想をはるかに超えた悲惨なものだった。

今思い返して言えることは、「あの時は、皆、とにかく必死だった」ということ。余震が続く中、早朝から避難所を巡回し診療を行うメンバー一人ひとりの「何とか手助けをしたい」という気持ちが、ひしひしと伝わってきた。私自身はチームリーダーとしてバックアップするため、地方自治団体との交渉やMSF日本事務所との連絡・報告、チームの安全対策に努めた。

4月以降、私は田老診療所の支援チームのリーダーとして、診療所のスタッフ、他支援団体の方々、市職員の方々と共に働いたが、皆さんとても協力的で、"一致団結"して被災者支援ができたことに感謝している。特に診療所スタッフとは、仮設診療所設立にあたってアイディアを出し合い、話し合いを重ね、できる限り希望に沿ったものを完成することができた。

あの震災の悲惨さを忘れないように、またあの時出会った素敵な仲間に会うために、これからも被災地を訪れたいと思う。私は昨年12月末から、タンザニアの難民キャンプで活動している。今年の3月11日には、遠いアフリカの地より追悼の意を捧げたい。

小野 不二雄/ロジスティシャン

小野 不二雄/ロジスティシャン

東日本大震災後の宮古市田老での国境なき医師団(MSF)の主な活動は、グリーンピア三陸みやこに避難した人びとやライフラインが途絶えた周辺の住民の方々に医療を提供する田老診療所を支援することだった。ロジスティシャンの私は、診療所スタッフと共に働くMSFの医療従事者と連携して、必要な物資や車両などの調達を行った。

ほとんどの避難者は、家族を失い、家を失い、絶望と闘っていた。そしてそれは、診療所スタッフも同じだったはずだ。にもかかわらず、診療所の方々は皆、それを笑顔の裏に隠し、私たちに接してくれ、患者さんに対応していた。

震災から5年ということで、テレビなどメディアでの報道も増えている。そこに暮らす人たちは表向きには笑顔があり、以前とは違う暮らしに戸惑いながらも前に進もうとしている。それでも、私が当時知り合った人たちの顔を思い出すとき、彼らの当時の心の中を思い、そして今の心情を想像すると、つらいものがこみ上げてくる。

2012年の秋に田老を訪れたが、田老の町はまだ復興には遠い状況だった。さらに時が経ち、5年の歳月が過ぎて、田老の町も変わってきていると聞く。今ではなかなか田老に行く機会も作れず、直接の支援もできていない。しかし当時、田老の人たちと短いながらも生活した者として、田老の人たちの心を思いながら、町の復興を見守っていきたいという思いをあらためて胸に刻んでいる。


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