コンゴ共和国:医療ケアが必要なプール地方の状況

2007年01月11日掲載

11月のある暑い日、フロール・デ・ルースはアムステルダムからコンゴ共和国に着いたが、着任早々に思いがけない出来事に遭遇した。彼女にとって、国境なき医師団(MSF)の看護師として働くのも初めてだった上、コンゴに滞在するのも初めての経験だった。任地はプール地方にあるキンダンバという住民約1500人の小さな町だった。この町は首都ブラザビルから140kmしか離れていないが、車で7時間もかかる。道路は水浸しの泥道で、建設当時の滑らかな舗装は失われていた。10年以上に及んだ紛争によって、国内のインフラが破壊された結果の一つである。かつては自慢の種だった発電所さえも、今は荒れるに任せたままで、必要な電力を供給できないでいる。紛争の間、道路が爆撃されたり放置されたりしたため、大多数のコンゴ国民は医療ケアを受けられなかった。少数の特定階層の人びとはそれでも高額の医療費を負担できるが、何千人もの子ども、母親や父親は、紛争中は医療へ全くアクセス出来ず、現在も最低限のケアさえほとんど受けられない状態にある。

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プール地方におけるMSFの活動

MSFは2003年、かつて紛争の中心だったプール地方の主要な3つの地域で援助プログラムを開始した。停戦成立から3年経った今も、MSFはミンドゥリとキンダンバの病院で医療ケアを継続している。MSFがこの2つの地域病院を活動拠点に選んだのは、周辺の町の住民に近いからだった。病院でのプログラムは、住民の体の健康と精神衛生の両面に重点をおいている。一般市民が対立する組織間の戦闘により襲撃されたり、巻き添えにされたりするなど、プール地方には長年にわたる暴力の傷跡が残っている。このことにデ・ルース看護師はすぐに気づくことになる。

キンダンバ病院での初日

キンダンバの病院にある結核病棟 キンダンバの病院にある結核病棟

デ・ルース看護師がキンダンバに着いたのは夕方だった。悪路を車で移動する厳しい旅で疲れ果てていた。MSFチームは彼女を心から歓迎してくれたが、明日は早く起きるよう指示が出ていると言って、その晩は早めに就寝した。実際にその通りだった。翌朝6時半前には、MSFの施設がある敷地内は蜂の巣のように活気にあふれていた。アドミニストレーター、ロジスティシャン、運転手、医療スタッフがこれから始まる1日の活動の準備をしていた。このチームで、マラリア治療、カウンセリングから妊産婦ケアまで、あらゆることを求めて病院にやってくる患者に対応する。

デ・ルース看護師はその朝、新しい同僚に会えることに胸を躍らせながら起床した。彼女は、産科病棟で働くオーストリア出身の看護師アンジェリカ・クレンと、紛争終結後に病院でのプログラムを立ち上げたコンゴ人の管理看護師エリーと一緒に仕事をすることになっていた。病院はMSFの拠点から徒歩10分のところにあり、潅木と鮮やかな緑の木々に覆われた小道を歩くのは気分が良かった。人びとは気さくで、彼女が通りかかるとみな笑顔を見せた。午前7時半に仕事場に着くとすぐに、彼女は病院の光景や音、においに圧倒された。母親や子どもたちは騒々しかったが、それでも木の長椅子に座って辛抱強く医師の診察を待っていた。病院のスタッフはトリアージ室(※)で、新しく到着した患者への対応に追われていた。

病院の構内には、平坦でぬかるんだ地面の上に3つの建物があり、数十人の患者を収容している。フロールがとりわけ驚いたのは、多くの女性による献身的な世話だった。患者の母親や姉妹、娘、祖母などで、病気になった家族の介護を根気よく続けながら、病院で何日も過ごすのだ。キンダンバ病院では、MSFの外国人医師1人がコンゴ出身の25人のスタッフと一緒に働く。病院は多数のプログラムを提供しており、緊急手術と産前・産後ケア、マラリアや結核の治療、心理社会的ケアなどを扱ういくつかの病棟がある。病院は停戦後に修復され、電力網には接続されていないが、ディーゼル発電機があるため電灯がついている。

午前半ばになって、フロールは脱力感を覚え、気を失いそうになった。暑さと騒音、それに前日の厳しい車の旅が彼女を弱らせていた。水分をとって静かな環境で少し休むため、病院の1室に案内された。

  • 患者の重傷度・緊急度などに応じて治療優先順位を決めるための部屋

走行中のMSFトラックに対する妨害

数分後、VHF無線機を手にした同僚のエリーが戸口から覗き、彼女に言った。「レオニーがあなたと話したいと言っています。」フロールは何か普通でないものを感じた。レオニー・ボルストラップはキンダンバ地区におけるMSFのプロジェクト・コーディネーターであり、通常なら、病院の上級スタッフに連絡するはずだった。しかし、ボルストラップは何か質問があってフロールを呼び出したのではなかった。デ・ルース看護師はその時の話の内容を次のように説明する。「レオニーはこの地区でMSFのトラックが武装した男たちによってほんの少し前に進路を阻まれたことを知らせるため、私に無線で連絡してきたのです。この知らせを聞いて病院にいる人びとがパニックを起こさないよう、彼女はオランダ語で話しました。」デ・ルース看護師にとって、これがプール地方の根底にある緊張状態に接した最初の経験だった。そして、彼女は状況が見かけほど平穏でないことに気づいた。

ボルストラップはその朝11時に、MSFのトラックが妨害を受けたという連絡を受けた。乗っていたのはMSFの運転手、交代運転手、それに3人の日雇い労働者で、水や木の柱、それに屋根ふき用の草を集めるために朝早く送り出された人たちだった。ボルストラップは言った。「キンバンダへ帰る途中、2人の武装した男が現れてMSFの「ウニモグ」(ハマーに似たより大型のトラック)を止めました。そして、運転手に対して、物資を回収するため泥道にはまって動けなくなった自分たちのトラックのあるところまで乗せて行けと言い、彼らのキャンプまで送らせたのです。」

幸いにも、MSFのスタッフとトラックは数時間後に無事解放された。MSFチームは武装した男たちと交渉したことはあったが、MSFが実際に狙われたのはこの10ヵ月余りで初めてだった。この事件はまた、紛争は表向きは終わったが、武装した男たちの脅威が依然として極めて現実的な問題であることを思い起こさせた。

紛争の歴史

コンゴ共和国の歴史を見ると、紛争と平和の期間が均衡している。同国は1980年代に数年間にわたる繁栄を経験したが、1992年になって最初の戦闘が勃発し、1997年に再発した。「ニンジャ」の名で知られる反政府組織と政府軍の間で一連の戦闘が行われた後、反政府組織はプール地方にある本拠地に退却した。同地方の一般住民は、戦闘を続ける両陣営間における暴力の応酬の巻き添えになった。一般住民はこの複雑な戦争の中で人質として利用された上に、戦闘員による脅迫や、殺害、レイプを受けた。2003年になってようやく、反政府組織とコンゴ政府の間で停戦合意が成立した。2006年初め、国連とコンゴ政府は、戦闘員の武装解除と地域社会への復帰を促進するため、「武装解除・動員解除・社会復帰(DDR)」プログラムを開始した。DDRは最初の数ヵ月はある程度成功したが、最近は進展が止まっている。今日、まだ武装している旧戦闘員の数ははっきりしないが、現地住民の目からみると、こうした旧戦闘員の存在が地域社会に対するれっきとした脅威となっている状況は変わっていない。

心理社会的ケア

MSFの心理社会カウンセラー ギスラン・パングー MSFの心理社会カウンセラー ギスラン・パングー

ギスラン・パングーの小さな診察室は、キンダンバ病院の建物の一つにある。病院全体を見ても、これほど患者を暖かく迎える雰囲気を持った診察室はない。色彩豊かなパグネス(アフリカの女性服)が窓を飾っている。木製の書類整理棚には子どもたちが描いた絵が貼ってあり、プラスチック製の容器と箱にはあらゆる種類の中古玩具が積み重ねられている。診察室の後ろの壁には、「あなた自身の中には、どんな問題でも解決できる力がある。私がここにいる唯一の理由は、あなたがそのことに気づくのを手助けし、あなたをその内なる力に結びつけるためです」という言葉が青いインクで記されている。

パングーは2004年以来、MSFで心理社会カウンセラーを務めている。彼はキンダンバ病院で、紛争による心的外傷に苦しむ患者とHIV感染者に対するカウンセリングに重点的に取り組んでいる。彼の助けを求める患者の多くは自分たちの問題が心的外傷によるものだとは明確に分かっていない。現地で使われているリンガラ語には心的外傷という単語はなく、それにもっとも近い言葉は感情的な苦しみを意味する 「mpassi」である。」パングーは説明する。「私のところへ来る患者のほとんどは、紛争の中で生き残った人たちで、その結果として問題を抱えています。この夏、私たちは周辺地域の村々を訪れましたが、そのとき会った住民は、紛争が3年前に終わっているにもかかわらず、紛争が自分たちに及ぼした影響についてすぐに話したがりました。そのことに私は衝撃を受けました。住民は自分たちの経験を分かち合うのを強く望んでいるのです。」

ギスランのカウンセリングを求める患者の中には、自分の悩みを過去の紛争と関連づけて訴える人が何人かいる。患者の大多数は女性だが、彼は子どもたちのニーズについても注意を払っている。ギスランの説明によると、戦争の後、子どもたちの遊び方にも変化が出ているという。子どもたちはサッカーや縄跳びの代わりに、銃撃戦を再現して暴力的な遊びをする。教師は生徒が学校に対する興味を失ったと嘆き、親は子どもが言うことを聞かなくなったとこぼす。ギスランは、これらはすべて紛争が現地住民に議論の余地のない影響を及ぼしたことを示す兆候だと考えている。

ギスランは言う。「人びとは自分の経験を語るとき、たいてい恐怖心から家族で村から逃げ出し、林の中に隠れた話から始めることが一般的です。捕まった女性はしばしばレイプされ、夫が殺害されるのを目撃しました。ヘリコプターが村を爆撃し、何百人もの住民が死亡しました。現在も、ヘリコプターの音が聞こえると、人びとは心配そうに空を見上げます。彼らは自分たちの国が良くなることは決してないだろうと感じているため、絶望的な気持ちだと私に言います。」

求められる医療ケア

戦争前、キンダンバでは牧畜が発達しつつあった。しかし、戦争が終わって3年経った今も、丘に家畜の姿は見えない。今日に至るまで、現地住民は経済活動に投資するのをためらっている。投資しても、住民の中にいる武装した男たちにすべて奪われてしまうのを恐れているのだ。MSFのコンゴ共和国における活動責任者、ジュディ・マッコネリーの見るところでは、プール地方の住民は自分たちの身の安全が確保されない限り、生活の向上に真剣に取り組む気にはならないだろう。彼女は言う。「今、何より求められている変化は、コンゴ政府が医療ケアと適切な社会基盤を提供することによって、プール地方の人びとの健康に配慮を示すことです。」プール地方の住民の健康への投資は安定と繁栄に向けての第一歩である。フロールも、プール地方の住民はそれに値すると考えている。

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