ルワンダ:大虐殺から20年、そのときMSFは......――報告書を発表

2014年04月03日掲載

銃で撃たれ治療を受ける男性(1994年7月) 銃で撃たれ治療を受ける男性(1994年7月)

ルワンダ大虐殺から4月6日で20年が経った。国境なき医師団(MSF)は、本件に関する事例研究を発表し、特設サイト「MSFの証言活動/MSF Speaking Out」で掲載している。数十万人が組織的に殺害されて行く現場を前に、"人道援助"の団体であるMSFが何を考え、どのように行動したのか。そのプロセスと結果を公表することで、人道援助の在り方を考える一助とされることを目的としている。

ルワンダ大虐殺とは?

フツ族(全人口の85%)とツチ族(14%)の抗争が繰り返されていた地域が、1962年にルワンダ共和国として独立。多数派のフツ族が政権を掌握し、少数派のツチ族を迫害する事件が繰り返し起きていた。その結果、多数のツチ族が近隣国へと避難した。

1990年、隣国ウガンダに避難中のツチ族が主体となった「ルワンダ愛国戦線」がルワンダに武力侵攻し、フツ族政権との間で内戦が勃発した。

1993年8月に和平合意が成立したが、1994年4月のハビヤリマナ大統領が何者かに暗殺されると抗争が再燃。フツ族過激派によるツチ族及びフツ族穏健派の大虐殺が始まった。同年6月までの3ヵ月で犠牲者は80~100万人に達したとされている。(参考:日本外務省ホームページ

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報告書『ツチ族の大虐殺――1994』

1994年4月から7月にかけて、ルワンダ在住のツチ族に対する組織的な虐殺が行われた。通常プログラムを展開していたMSFが、この事態に直面してどのように反応したのか。報告書ではその点を描き出している。国連安全保障理事会がこの事件を「組織的な集団殺りく(Genocide)」と認めるまでに時間がかかり、国連軍による武力介入は10週間遅れたことも、被害を拡大する結果につながった。

MSFインターナショナルのジョアンヌ・リュー会長は「MSFの医療・人道援助活動の歴史の中で、ルワンダ大虐殺は最も苦しいできごとでした」と話す。報告書では、MSFの活動チームと事務局チームが、さまざまな制約、ジレンマ、疑問に直面したことを公表している。また、MSFの反応をオープンにすることで事態の打開を図ろうとしたことについても描写している。

MSFは各国政府に対して、「『人道援助を行っている』ということを言い訳にしてお茶を濁すのではなく、虐殺そのものを食い止めなければならない」と訴え続けた。そしてついに、1994年6月17日、MSFは国際社会に対し、ルワンダに武力介入をするように呼びかけるに至った。"医師では虐殺を止められない"という現実に直面した結果の判断だった。

報告書は、活動地の内部報告書、報道、MSFスタッフへのインタビュー、MSFや報道関係者のビデオをもとに作成している。これらの資料から、ルワンダ危機に対応したMSFの原動力とジレンマ、そして異論の数々が浮かび上がってくる。

人道援助団体であるMSFにとって、虐殺を前に沈黙する事は許されるのか?
人命が失われる可能性がある武力介入を呼びかける事は許されるのか?
これらはいずれも、当時、MSFが直面した最も本質的な問い。

ルワンダ難民と周辺国に関する報告書も

虐殺から逃れて避難してきた人びと(1994年7月) 虐殺から逃れて避難してきた人びと(1994年7月)

このほか3つの事例研究を発表。ルワンダ大虐殺が、周辺国のルワンダ難民と受け入れ国に対して人道面で与えた影響をとりあげている。これらの事例研究は、旧ザイール(現コンゴ民主共和国)とタンザニア国内の難民キャンプで起きた惨事も記録している。当時、「難民指導者層」が100万人以上を厳格な管理下に置き、虐殺に加担する事件が起きていた。

さらに、虐殺事件の後にルワンダで発足した新体制による人権侵害や、ルワンダ軍の支援を受けて旧ザイールの反政府軍が行ったルワンダ難民の追跡と殺害にも触れている。

リュー会長は「ルワンダの事例研究は、虐殺に対するMSF自身の原動力と活動上の困難を吟味するものです。虐殺の犠牲になった人びとのこと、そしてMSFのルワンダ人スタッフも数百人が殺害されたことが思い起こされます」と話す。

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