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ジンバブエ:コレラの惨禍─ある看護師の体験

2009年03月10日掲載

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ジンバブエでコレラの歴史的な大流行が起きている中、ノルウェー出身の看護師であるピア・エンゲブリクトセンは、同国のマスビンゴ州に2ヵ月派遣されました。今回の派遣は、彼女にとって4度目となります。国境なき医師団(MSF)は2009年2月までに、ジンバブエで4万5千人以上のコレラ患者の治療にあたってきました。

看護師の実体験「ある母とその6人の子どもの生死に関わるコレラの物語」はこちら



コレラ治療施設にて。

クイック・キラー

コレラに取り組むことは、私がこれまで携わってきた他の緊急事態とは異なっています。何よりも違うのは、そのスピードでした。コレラにかかった大勢の人びとがいる地域や、あるいはコレラ患者で完全に溢れかえっている診療所に足を踏み入れた瞬間、多くの命がまもなく失われてしまうことが分かります。コレラは脱水症状を引き起こし、数時間のうちにその患者の命を奪う危険があるため、迅速に治療の判断を下すことが求められます。明日ではもう遅いのです。これは、私が過去に経験した緊急事態とは異なる考え方でした。そして同時に、賢明な決定を求められました。コレラはまさにジンバブエの国全体に流行しており、私たちは一貫した支援を提供する必要がありました。

コレラ患者は、全く動かない状態でベッドの上に横たわっており、その間、水分を補給し脱水症状を治すための点滴治療を素早く行います。患者が消耗し切っているのが分かります。一目見るだけで、どれほどの脱水状態に陥っているのか分かることが多いのです。目はくぼみ、閉じていても目が白いのが見てとれます。

ある母親と彼女の6人の子どもが、どのようにしてコレラからかろうじて生き延びたのかという話については、こちらを読んでください。

ある日常の1日

私たちが活動した州は大きく、そのほとんどが農村地帯であるため、できるだけ多くの人びとを救うために、私たちはこれまでとは異なる戦略を採用しました。私は、コレラの影響を受けた農村地域を訪問し、MSFの活動が必要かどうかを決定する調査チームの一員でした。時には、コレラが流行しているのかどうかが分からない地域にも赴き、自分たちでその状況を見なければならないこともありました。長距離の旅をしなければならず、地元の村で寝ることもありました。

人びとが親切なので、私自身は地方へ行くことを本当に楽しみました。ただ、コレラの影響を受けた村々を目の当たりにすることを常に予測していたので、決してくつろいだ気分にはなれませんでした。地方の道路は状態が非常に悪く、時には四輪駆動車でさえ苦労しながら進まなければなりませんでした。ロバ荷車しか持たない人びとが病人を診療所に運ぶことがどれほど困難か、想像できるようになりました。

私たちが到着した時、村の人びとは非常に落ち着いていました。が、子どもたちは私たちを指差したり、触れたりしてはクスクスと笑っていました。

訪れた地域に医療施設がない場合は、自分たちでコレラ治療ユニット(CTU)を開設しました。広大な森林地帯にひろがる古くからの農村地方では、たいていの場合がそうでした。私たちは必須の装備を車で運び、ビニールシートや消毒と殺菌用の大小様々なバケツ、塩素、洗浄装置、保護服(エプロンやブーツ)などの援助物資、それに乳酸リンゲル液や経口補水液(コレラ等による脱水症状の治療に用いる)、点滴セット、抗生物質、手袋、救急箱などの医療用品をCTUに配置しました。

既存の診療所がある場合は、コレラ患者を適切に隔離できるように改善を施しました。私たちはさらに、コレラ患者と別の下痢症状を持つ患者とを区別できるよう、また、緊急の処置を必要とする患者を判断できるよう診療所のスタッフに研修を行いました。

非常に重篤な状態にある患者を大勢診ました。彼らの多くは脈が取れないほど弱く、意識を失っていました。それでも、点滴治療を数時間受けると、立ったり話したりすることができるようになるのです。自分がいかに人の命を救っているかを真に感じるのです。このような形で会う患者が大勢います。ほとんどの患者は2、3日診療所に泊まり、完全に治癒して家に帰って行きます。

それでも、そこにいるのは非常に悲しいことでした。コレラが州全体に蔓延し、多くの小さな村が影響を受けたため、救うことのできなった人びとも大勢いたのです。村に到着するのが遅かったこともありました。私たちが到着するまでに、コレラがすでに村を「押し分けて突き進み」、人びとの命を奪っていました。村に到達するまでの距離がとてつもなく長いために、すべての人びとのところに到着するのが間に合わなかったことが最大の問題でした。

1日1日が長く、毎日真夜中をすぎるまで働きました。毎日が予測できないことばかりで、その日にできるだけ多くの仕事を片付けてしまわなければなりませんでした。その日の仕事を終えるまで、毎晩遅くまで起きている傾向にありました。

村々での歓迎

それぞれの村では、非常に温かく迎え入れてもらいました。人びとは長い間、国際社会からの援助をあまり受けられずに苦しんでいたので、どんな形の支援も歓迎されるのだと思います。人びとは非常にオープンで、病気と闘うための援助の必要性を認識していました。車で孤立した村々へ行くたびに、非常に親切な村人たちと出会い、彼らは積極的に情報や懸念を私たちと共有してくれました。

地元の診療所で働いている看護師は、私たちの援助に大変感謝してくれました。地元の看護師のほとんどは、備品や必須医薬品の十分な供給を長い間受けていなかったので、私たちの行った研修や備品等の寄贈が日ごろの仕事に大きな違いを生んだのです。

コレラに関する教育

基本的な情報が不足しているだけで人びとが命を落としている現実に気づいた時、人びとにいかにしてコレラを防ぐかを教えることの重要性が、日増しに明らかになりました。人びとはコレラがどのように人から人へ感染するかを知らなかったので、予防策を講じることができなかったのです。

私はあらゆる機会を利用して、村々の指導者にコレラについて話をし、彼らの村でどのようにしたらこの病気の感染拡大を止めることができるのかを理解してもらうよう努めました。時間さえあれば、指導者たちに村の住民全員を集めてもらい、コレラとは何なのか、どうしたらこの病気を防げるか、もし誰かが病気になったら何をすればいいかを説明しました。ほとんどの人びとは交通手段を持っていないので、私たちは村ごとに誰が「救急ロバ荷車」を提供するかを決めておくよう、指導者たちに頼みました。

コレラに対する安全策を人びとに教えるのは、とても気持ちの良いことでした。当初、多くの人びとが診療所へ行く間もなく、村の中で亡くなっていました。その他大勢の人びとも、非常に重篤な状態で診療所に運び込まれていました。ところがこうした保健教育を行った後、患者たちは以前よりずっと早く診療所へやって来るようになりました。村で亡くなる人はめったにいなくなりました。コレラで亡くなった人びとの埋葬は、コレラが拡大しないよう、医療スタッフによって監視されるようになりました。コレラ患者の葬式は、集まった人びとが死者の体に触れ、その後一緒に食事をすることから、地方ではコレラの拡大を引き起こす主な感染源になっているのです。

コレラとの闘いがどのように私を変えたか

この経験は確実に私を変えました。ジンバブエに来る前、私はコレラがどれほど残酷か想像もしませんでした。私にとってコレラは、単なる感染性下痢疾患の1つに過ぎなかったのです。けれども今、私はコレラがどれほどの損害をもたらすものかを知っています。あらゆる苦悩が私に強い印象を残しました。もっと多くの国際的な援助があれば、もっとたくさんの命が救われたことでしょう。

最も印象に残ったのは、家族全員を失った両親に会ったことでした。彼らは完全に黙り込んでいましたが、その目が痛みと絶望を語っていました。人びとの多くが、病気の家族をなぜもっと早く医療施設に連れて行かなかったのかと、罪の意識を感じていたと思います。しかし、あまりに多くの障壁があります。お金、交通手段、コレラについての知識の不足、そしてとてつもない距離。後になって判断を下すのは、とても簡単なことなのです。

私は、出会ったすべての人びとのことを忘れないでしょう。彼らは実に親切で、陽気で賢明でした。こんなにも絶望的な状況の中でどうして元気でいられるのか、私には想像できません。けれども、彼らはなんとかして、そのような状況を乗り越えたのです。しっかりした心持ちで、決して諦めようとしませんでした。

ある母とその6人の子どもの生死に関わるコレラの物語

ある晩、私は夜勤の看護師からの電話で起こされました。4人の子どもがあまりに具合が悪く、最寄りのCTUまで歩き続けることができずに道路の脇で横たわっているという連絡が入った、と看護師は言うのです。

ここでは夜は真っ暗闇です。子どもたちがどこにいるのか分からず、また夜間外出禁止令のため、日が昇るのを待って子どもたちを探しに行かなければなりませんでした。子どもたちが暗闇の中で横たわり、脅え、絶望的になっている姿を思い描いている間、ゆっくりと時間が過ぎていきました。

私は最悪の場合に備え、応急処置用品と遺体袋を持って、夜明けとともに現地スタッフと出かけました。

2時間探し回った後、ある村で彼らを見つけました。6人の子どもと1人の母親で、彼らはほぼ意識がありませんでした。何人かの子どもたちは、完全に意識を失っていて起こすこともできませんでしたし、他の子どもたちは目覚めてはいても、あまりに衰弱していて、話すことも動くこともできませんでした。子どもたちは母親の腕の中で横たわっていました。家の中で、父親が死んでいるのを見つけました。隣人も意識を失っていました。

私たちは点滴治療を開始しました。彼ら全員を至急、診療所へ連れて行かなければなりませんでした。私たちの到着が数時間遅かったら、彼らは全員死んでいただろうと思います。車には十分なスペースがなかったので、全員が入るスペースを作るため、お互いの体を重ねるように乗せなければなりませんでした。最も近いコレラ治療センターまで、約1時間のでこぼこ道を走りました。運転中、車の金属床が焼けるように熱くなり、私はできるだけ多くの子どもたちを自分の膝へ寄せながら、息ができるように気道を確保し、点滴が流れているのを確かめようとしていました。2人の子どもたちが抑えきれずに嘔吐しました。私は家族を気の毒に思い、涙をこらえることができませんでした。現実は、あまりに悲惨でした。

病院に着いてまもなく、家族の隣人は息を引きとりましたが、母親と子どもたちは数日後に回復しました。母親は、自分と子どもたちが病気になった同じ日の夜に夫を亡くしたと言いました。彼女の夫とその隣人は、数日前に行われたコレラ犠牲者の葬式に参列していました。病気が命取りになると気づいた彼女は、約50km離れた最も近い診療所への道を探そうとしたのです。しかし彼女にはお金がなく、彼女の隣人たちも病気にかかるのを恐れて、自分たちのロバ荷車で彼女たちを運ぼうとしなかったのです。まもなく彼女は衰弱し、歩くことすらできなくなったと話しました。死が訪れ、苦しみが終わるのを待つ以外、残された可能性はなかったのです。私たちが到着したのはその翌朝でした。彼女は近づいてくる車を最初に見た時、自分の目を疑ったけれど、その後、私たちが自分たちのために来てくれたのだと気づいたそうです。

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