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「私にはこうするしかありません」MSFのイエメンにおける人道問題担当、イングリッド・キルヒャーの手記

2008年01月17日掲載

「私にはこうするしかありません。たとえ海で溺れ死ぬとしても、私はイエメンへ行かなければならないのです。生き残れるかもしれません。けれども、モガディシオに帰れば、私は死にます。」身内の男性2人を亡くしたモガディシオ出身の27才のソマリア人男性

毎年、何千人もの人びとが命がけでアデン湾を渡り、イエメンに入国している。これらの人びとは、国内での戦闘から逃れようとするソマリア人や、国内で仕事が見つからないことや政治的理由、あるいはオガデン地方の紛争により自国を離れるエチオピア人である。船での航海の状況は悲惨で、毎回のように死者が発生している。2007年12月中旬までに、約2万8千人がイエメン海岸に到着したが、651人の死亡が確認されたほか、659人が行方不明になっている。実際の死者数はおそらくこれを大幅に上回ると見られる。国境なき医師団(MSF)は2007年9月にイエメンでの援助プログラムを開始して以来、同国南部のアビヤン、シャブワ両州の海岸に到着した3千人を超える避難民や移民に医療・人道援助を提供してきた。こうした人びとの多くは疲れ果て、精神的に打ちのめされた状態で到着する。彼らは生死についての悲惨な話を口にする。しかし、MSFチームが12月15日に直面したものは、それまで目の当たりにしたいかなる出来事よりもはるかに悲惨なものであった。以下はMSFチームの報告である。

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この日はいつものように始まった。私たちは6時ごろ起床し、海岸沿いの重要地点からの連絡を受ける準備を整えた。連絡がなかったので、自分たちで調査することにした。ちょうど出発しようとしたとき、電話連絡があった。夜間に一隻の小船が私たちの活動拠点から2時間ほどの場所にある軍の検問所の近くに到着し、多数の死者が出ているという。大急ぎで車に乗り込み、現場の状況がどうなっているかを心配しながら海岸沿いに走った。メンバーは、医師のアクラム、看護師のクリスティーナ、心理カウンセラーのアハメドとゼネベ、チーム・コーディネーターのサーシャ、人道問題担当のフセインと私、それにアドニとサレムの2人の運転手であった。

検問所に着くと、兵舎に沿ったわずかな日陰やその近くに、腰を下ろしたり横たわったりしている50人ほどの集団が目に入った。彼らの多くはひどい状態で、疲れきっており、体調が悪く、とても悲しそうに見えた。目に涙を浮かべている人も何人かいた。MSFチームのメンバーは水やビスケット、治療用の食物、ナツメヤシの実を車から降ろし、彼らに配った。MSFの医療チームは人びとの間をすばやく歩き回り、だれが緊急治療を必要としているか調べた。そして、砂地に医療ボックスを設置し、診察を始めた。一方、カウンセラーはMSFの役割と海岸での活動について説明し、心理社会的な支援をさらに必要としている人を特定するためのグループセッションを行った。

多くの人が、3日間にわたる航海中に、窮屈な姿勢で座っていることを強いられたため、体の痛みを訴えた。一切の水や食物なしに炎天下の船上に座っていたため、頭痛を訴える人もいた。全身に打撲傷や血腫のある人が多く、強く殴られたことを示していた。全身に殴られた痕跡のあるモガディシオ出身の25才の女性は看護師のクリスティーナにこう説明した。「私たちは人間ではなく、動物のように扱われました。」また、メルカから来た25才のソマリア人男性は付け加えた。「彼らは棒切れと銃で絶え間なく私たちを殴りました。」クリスティーナは30以上の傷の手当をし、不安やストレスの症状が見られる人たちのケアをカウンセラーに委ねた。

海に飛び込むようと強制

フセイン、ゼネベ、アハメドがこれらの人たちと話し始めると、悲惨な状況が明らかになった。小船は夜の12時ごろイエメンの海岸に近づいたという。モガディシオから夫と一緒に来た25才のソマリア人女性は言った。「船は岸からかなり離れたところで止まり、乗客は海に飛び込むよう強制されました。水深が深いところだったので、乗客はそれを拒否し、船をもっと岸に近いところに寄せるよう頼みました。すると、私たちはひどく殴られました。そのため、乗っていた人びとの大部分が船の片側に移動し、船は転覆しました。ほとんどの人は泳ぎができず、溺れ死にました。」

2人のいとこを亡くした27才のモガディシオ出身のソマリア人男性は「私は最初に飛び込むよう強制された乗客のひとりでした。船が転覆して、私は海中に転落しました。そのときは、脚を動かすことができませんでした。必死に泳ごうとしていると、容量5リットルの貯水容器が目に入ったのでそれをつかんで、胸に抱きかかえました。岸にたどり着いて、砂が乾いているところまではって行きました。手足が麻痺して、何もできませんでした。」生き残れなかった人も多数いた。メルカ出身の25才のソマリア人男性はこう話した。「船が転覆し、私と妻は海岸に向かって泳ぎました。岸に着くと、妻は死にました。子どもたちを見ると、彼らも死んでいました。」

100人近くが死亡・行方不明

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生存者に医療ケアを行うMSFスタッフ。
2007年12月撮影

何人かが私たちに語った話によると、船がソマリア海岸のボサソ港を出航したとき、乗客は合計148人だったという。生存者を数えると49人で、100人近くが死亡または行方不明であることが分かった。MSFが話したエチオピア人のひとりは「出航したとき、私たちエチオピア人は50人いましたが、今はたった8人です」と語り、エチオピア人の生存者はきわめて少なかったようだ。バレ地方の村をグループで出発したオロモ人の青年はこう話した。「船には村の出身者が10人乗っていましたが、3人だけになってしまいました。浜辺で兄弟の遺体を確認しましたが、ほかの人たちの行方は分かりません。」

船は長さ約8mのファイバーグラス製で、ひどく込み合っており、込み具合は平均90人から120人が乗っている毎度の状態よりもさらにひどかった。今回新たに到着した人たちによると、このような過密状態になったのは、ソマリアで戦闘が激化したため海を渡って逃れようとボサソで待機している人の数が増えているからだという。船上では乗客が互いに折り重なるようにして座っていたと話す生存者もいた。オロモ人男性のひとりは「私は下のほうの船体部分に座っていましたが、私の下に人がいました。驚いてその人は生きているのかと聞きました。遺体の上に座っているわけにはいきません。けれども、私が立ち上がろうとすると、彼らは私を殴りました。海に飛び込みたい気持ちでした。」

小船にできるだけ多くの人が詰め込まれ、エチオピア人のほとんどは、通常は貯蔵スペースとして使われる甲板の下の部分に入れられる。そこは呼吸するための十分な空気がないうえ、暑さも一層ひどく、状況はさらに劣悪である。生存者によると、少なくとも20人がこの下の部分にいたという。航海中に少なくとも4人が死亡した。モガディシオ出身の25才の男性は次のように語った。「船体の下の部分で死亡した人が何人かいました。食べ物や水が与えられなかったうえ、暑くて込み合っていたからです。外気を入れようとすると、殴られました。」転覆したとき、船体下部にいた人たちは船の下に閉じ込められ、死亡した。

医療チームが治療を続け、カウンセラーが近親者や友人を亡くした多数の人びとの支援に当たる一方で、アドニは衣類、サンダル、石鹸の入ったキットを配った。到着した人たちが何時間も焼け付くような太陽の下に座っていたことを心配して、アドニは日陰を増やすためトラックの脇にテントを張った。

悲惨な光景

一方、サーシャとアクラム医師、そして私は、ほかに生存者がいるかどうかを調べ、死者数についてより多くの情報を集めるため浜辺へ向かった。岸辺に着くと、数十人の遺体がおよそ5kmにわたって散在していた。悲惨な光景だった。まだ水中に浮いている遺体もあり、浜辺に横たわる遺体の中には、半分が砂に埋もれたものやうつ伏せ状態のものもあった。これらの遺体は女性のものが多く、子どものものも5体あった。最年少の子どもは生後8ヵ月だったとあとで聞いた。遺体を数えると合計56体だった。ゼネベとアドニは、死者の尊厳を多少なりとも取り戻すため、遺体を遺体袋と白い布で覆い始めた。私たちが歩いていると、行方不明の身内を探している悲しみに打ちひしがれた数人の生存者と出会った。ソマリア人女性とその甥の若い男性がいたが、女性は姉妹と2人の姪を探しており、男性はおじが行方不明になっていると話した。エチオピア人男性は姉妹を探しに来ていた。海岸の片方の端に着くと、転覆した小船の船体が海から突き出ているのが見えた。150人近くの人たちがこの長さ8mの小船にどうやって乗れたのか、信じられない気持ちだった。

検問所に戻ると、生存者がようやく収容センターに移送されるところだった。トラックに乗った彼らにさよならを告げたとき、私の中には彼らが乗り越えなければならなかったものに対する怒りがこみ上げてきた。モガディシオ出身の25才のソマリア人女性が言っていたように、彼らは安全な場所で暮らし働くことを望んだだけだったのに。

私たちはオフィスに戻り、この恐ろしい1日について報告し合うために集まった。チームにとって非常に厳しい1日だったが、私たちの支えになったのは、チーム全員が一緒に働き、生存者の救援にできる限りの手を尽くしたことだった。この恐るべき事態にどのように対処し、任務を続けることが出来るかを私たちは考えた。すると、メンバー全員が感じていたことを、ゼネベが次のように語った。「私は浜辺へ行きました。そこで、多くの遺体を発見したわけですが、私はそれを信じられませんでした。私は目を閉じました。けれども目を開けると、遺体は依然としてそこにあり、その上をカニが走っていました。私はショックを受けて何かしたいと思いました。そこで、トラックに戻ってアドニと一緒に遺体袋を持ってきて、それに遺体を入れ始めました。私はひたすら歩き、遺体を覆う作業を続けました。しかし、心の中では、私はそこにいませんでした。」

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