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生き延びるための逃走:~RCカタンガ州中央部で繰り返される住民の避難
2006年1月発表

目次
論点要旨
MSFのカタンガ州での活動
I. カタンガ州における暴力:序論
II. 暴力と避難のパターン
II-1 重なる避難
II-2 家族の別離
II-3 家族の喪失
III. 安全な避難場所と援助を必要とする避難民への関心の欠如
III-1 受け入れ側の住民の負担
III-2 食糧不足と食糧配給
III-3 公衆衛生と医療の需要
III-4 援助物資の横領と暴力行為
IV.人びとは今も森の中に避難しているのか?
IV-1 破壊と貧困
IV-2 暴力と脅迫
V. 結論
論点要旨
コンゴ民主共和国(DRC)のカタンガ州中央部と北部では、過去12ヵ月以上にわたって武力衝突が拡大し、住民が家を失う例が増えている。分かっているだけでも9万2千人が避難を強いられている。避難民は財産を失い精神的な痛手を負った上に、なおも虐待や略奪の標的にされ続けている。家を焼かれ全てを失うのを目の当たりにして避難した人びとは、避難場所や食物、医療援助を求めている。
ウペンバ湖沿岸部だけでも今なお3万5千人が避難場所を探しており、その数はこの3ヵ月だけで1万5千人に達する。11月半ば以来、1万7,500人を超える人びとがドゥビエに避難してきた。このため町の人口はほぼ2倍に達し、もはや収容能力の限界である。プウェト<Jバロ間の地域では9千人が避難した。家を失った人びとは村や森の中、または急ごしらえの避難所で散り散りになって生活している。
こうした避難は現在も続く紛争のために生じている。国境なき医師団(MSF)は、森の中に危険な状況で暮らしている人がまだ数多くいるのではないかと懸念している。一方MSFが接触することができている避難民については、食糧と医療ケアが懸案となっている。チームは避難民に医療ケア、テント、飲料水、衛生設備を提供している。特にドゥビエでは、食糧不足のために栄養失調になる子どもの数がますます増加しており、暴力行為をうけて次々と避難場所を変えるといった悲惨な話も耳にする。家と暮らしを奪われた人たちがもとの場所に戻れる見込みはほとんどなく、避難民は受け入れ先の社会の状況に左右されるという依然として不安定な境遇に置かれている。
カタンガ州では、避難民への緊急援助が不可欠でありながらあまりにも長い間見捨てられてきた。カタンガの人びとの健康や生命を守ることは急務である。
MSFのカタンガ州での活動
MSF1988年からカタンガ州での活動を続けている。現在は州内の9つの地域(ドゥビエ、プウェト、ウペンバ、ムクブ、カバロ、ニュンズ、アンコロ、ミトゥワバ、他1ヵ所)でくまなく活動している。MSFの活動は、病院や医療センター、移動診療などでの医療ケアに加え、集団予防接種、栄養治療センターの運営、緊急の飲料水補給や衛生設備の整備、さらには生活必需物資の配給など多岐にわたる。
I. カタンガ州における暴力:序論
この数年カタンガ州中央部と北部の住民は、幾度となく家を追われ、避難生活を余儀なくされてきた。そして紛争から逃れるたび、持てるものすべてを失ってきた。やっとのことでにわか作りのキャンプや村にたどり着いても、援助を受けられる見込みはほとんどない。中には恐怖におびえながら森に隠れている人もいる。避難民たちは援助も受けられず、家に戻れる見込みもないという、看過できない状況におかれている。しかし、政府も国際社会も、避難民を保護し援助する責任を果たすための適切な対策を何一つ打ち出していない。
少なくとも1998年以来、カタンガ州中央部の大部分が武力衝突に巻き込まれてきた。この年多くの人びとは、一方をルワンダが支援するコンゴ民主連合(RCD-ゴマ)に、もう一方をコンゴ政府軍(FARDC)とマイマイ派民兵組織に挟まれ、武力衝突の最前線に巻き込まれた。
2000年代の初めに和平合意が成立し、権力分割のための様々な協定が結ばれ、マイマイ派への公的支援は次第に縮小したため、以前とは異なる対立関係が浮上した。住民はFARDCとマイマイ派の双方から長期間にわたって非公式に食糧を供出させられてきたが、合意締結後はますます虐待され、攻撃をうけ、操られるようになった。一方、反政府組織に対する軍事作戦により避難民の数が大幅に増加した結果、健康状態が悪化し、栄養失調や精神面の不調を訴える人びとが増加している。にもかかわらず、適切な緊急援助は全くといっていいほど行われていない。
II. 暴力と避難のパターン
MSFの活動地域では、この1年間で村を捨てて避難した人の数は合計で9万2千人にのぼる。避難先は、ミトゥワバ、ムクブ、ドゥビエ、ウペンバ、カバング、ルクナ、カバロ、プウェトである。過去2年間に、ミトゥワバ、ウペンバ、マノノに囲まれた三角地帯で勃発した武力衝突によって、数回にわたり避難が生じた。
- 2004年初頭、マイマイ派内の政治的分裂による内部闘争と、ミトゥワバ北部のFARDCによる攻撃によって、大勢の避難民が森やマイマイ派支配領域の南部へ逃げ込んだ。
- 2005年の3月と4月、コンガ・キンチャとディレンゲ・ムウェマを結ぶ軸に沿ってマイマイ派とコンゴ政府軍の間で勃発した武力衝突により、約1万5千人の男性、女性、子どもが方々のキャンプやミトゥワバ、マゾンブウェ、カスンゲシ、サンプウェの村に避難した。また、カコノナ地区周辺では6千人が武力衝突から避難した。
- 7、8月に、2千人近くがムクンダ、キャブウェ、シャンワナ、カマザンガ、キベンバ、カンパングウェの村からルコナに向かって避難した。これとは別に、ムテンデレ、キシャレ、ンパザの村からは同時期に2千人がドゥビエへと避難してきた。
- 11月中旬、軍事作戦が活発化したために6千人がドゥビエに避難し、さらに4千人が避難民キャンプを引き払ってプゥエト近郊のキザビへ、5千人がカバロへと避難した。
12月から2006年1月にかけて、マゾンブウェに避難していた人びとはマイマイ派の襲撃をうけてさらなる避難を余儀なくされ、1万人がドゥビエに向かった。元からマゾンブウェに居住していた3千人のうち、帰ることができたのは千人に過ぎないとみられる。ウベンバ湖畔には、すでに避難していた2万人に加えて新たに1万5千人が到着した。さらに別の6,500人はサンプウェ、ミトゥワバへと避難した。
このようにカタンガ州中央部と北部では、わずか1年あまりの間に9万2千もの人が避難を余儀なくされたが、それ以前にも、詳細の明らかになっていない数多くの避難民が既に存在している。
II-1 度重なる避難
1998年に戦争が始まって以来、カタンガ州中央部や北部のほとんどの人びとにとって、このような動乱や避難は日常茶飯事のことである。そしてこの状況はマイマイ派:ARDC間の戦闘のために現在も続いている。
度重なる襲撃や虐待により、何千もの人びとが幾度となく、やむなく畑へと避難した。どんな状況であれ、何とか家に帰れる日が来るまで、村から離れた畑で数日、あるいは数ヵ月間暮らす。1年という場合もある。数週間かそれ以上の期間、夜間に畑と家を絶えず行き来する人がいる一方、結局、畑から森の中に移動せざるを得ず、村に戻れないままの人もいる。森に逃げた人の多くは、1ヵ月ないし数ヵ月の間、より安全な避難場所を求めてある場所から別の場所へと森の中を絶えず移動している。
「私たちはマイマイに人質として捕らえられました。マイマイがすべての家を焼き払ったので屋外で生活せざるを得なくなりました・・・次には政府軍が攻撃してきたので、森の中へ逃げ込まなければなりませんでした。」
(2005年11月、48才男性)
「森の中でも常に動き回っていました。夜、マイマイが歌っているのが聞こえる度に荷物をまとめて逃げました。」
(2005年6月、34才女性)
II-2 家族の別離
MSFは数多くの避難民から、病気や老齢、障害のある家族を自転車に乗せていっしょに避難しようとしたが、途中で離ればなれになってしまったといった話を聞いた。
「ミトゥワバから40km北にあるワトゥンペンベから避難したのですが、僕の家族は森の中でばらばらになりました。母は僕とは別の方向に逃げました。僕は姉とその夫とともにカスンゲシまで一緒に逃げました。母や他の兄弟がいまどこにいるか分かりません。」
(2005年6、14才男性)
II-3 家族の喪失
非常に懸念されるのは、この数年のカタンガ州における死亡率の高さである。カタンガ州中央部と北部の大部分の人びとは、畑から収穫できる食糧だけでは満足な栄養を摂ることができない。また、森の中では野生の食物だけが頼りで栄養失調となる場合が多く、5才以下の子どもの死亡率が高いことが報告されている。このことは、多くの家族が保護を求めてやってくる政府支配地域のドゥビエのキャンプに、5才以下の避難民が少ないことでも証明される。
「子どもを5人なくしました。ふたりは2年前くらいに最初に避難したとき亡くなりました。森に避難したとき、十分な量の食べ物がなかったのが原因です。残りの3人は2004年の雨季に、同じ状況で息を引き取りました。」
(2005>年12月、40才女性)
「森の中での生活は大変苦しいものでした。1週間に1度しか食べられないこともありました。30kmかそれ以上歩いて、やっとすこしばかりの小麦粉を手に入れたということもありました。」
(男性、7人いる子どものうち1人が森の中で死亡した)
III. 安全な避難場所と援助を必要とする避難民への関心の欠如
今日、ミトゥワバ周辺には避難キャンプがいくつかある。そのうちの3つはドゥビエ周辺にあり、プウェト、カバロ、ウペンバ国立公園周辺にも避難民が点在している。安全とされているこれらのキャンプもやはり危険と無縁ではなく、援助も不足している。
ウペンバ湖上の浮島に住む避難民
MSFと地元住民の努力にもかかわらず、キャンプは過密状態である。設備は不足し、テントの数は限られ、衛生設備は整っていない。ウペンバ国立公園周辺では何千もの人が、蚊が群がる沼地か湖上の浮島で暮らしている。現在MSFはミトゥワバ、カバロ、プウェトにおいて、緊急医療ケアや、テント、食物以外の援助物資、水、衛生設備を提供している。しかし、援助の必要がますます高まっているにもかかわらず、現状ではMSF以外には、実効的に活動している国内外の団体はほとんどいない。
マラリアから呼吸器感染症、下痢に至るまで、医療に対するニーズは様々である。これらはすべてよくある病気であり、治療可能なものであるが、もともと病気に対する抵抗力が低く、過密で、非衛生的な環境での暮らしのために事態が悪化している。食糧不足による栄養失調(これも予防可能である)は依然として主要な課題である。住民は常に襲撃の危険にさらされ、強盗が横行している。受け入れ側の地元住民も重大な影響を受けている。
III-1 受け入れ側の住民の負担
避難民が身を寄せる場所にはほとんど何の設備もない。受け入れ準備など整っておらず、すべてを失ってたどり着く多くの避難民は、食糧、衣服、住居などの面で地元住民の善意に大きくに頼らざるを得ない。しかし、地元の人びとにもそれだけの援助を提供する余裕はなく、逆に彼ら自身が治安の悪化や貧弱なインフラ、資源の不足に苦しめられることになる。
III-2 食糧不足と食糧配給
ミトゥワバでは、8月に世界食糧計画(WFP)が避難民1人当たり3ヵ月分の食糧配給を行ったが、それ以後の配給は途絶えている。現在軍事作戦が展開されているために、人びとは畑を耕しに行くこともままならない。
過去12ヵ月、ミトゥワバでMSFが栄養治療を行った1,026人のうち50%は避難民であった。この中には乳飲み子を育てる母親も多数含まれる。残り50%は地元住民であり、彼らの状態もまた不安定である。その上11月中旬から、ミトゥワバの地元集落に対して軍隊が食糧や作物の収穫への課税を強要してきたという報告がある。
ドゥビエとプウェトの地元村落は避難民に、畑のキャッサバを収穫したり、畑の一角に作物を植えることを有料で許可した。地元住民はこの金で食糧を購入している。避難民を養えなくなってきているのである。
本原稿執筆の時点で、特にドゥビエには17,500人以上の避難民が流入しており、耕作地域が不足して食糧価格は高騰している。ジャガイモ、タマネギやレタスはもはや市場では手に入らず、豆やトマトもめったに見られない。主食のキャッサバの価格は2倍に、肉の値段は3倍になった。(1)
プウェトには食糧配給が届いているが、ドゥビエの食糧事情は不安定である。現地のNGOが、避難民がまだ数千人程度だった8・月に食糧を配給していたが、それ以降は途絶えてしまった。その後、WFPがミトゥワバ向けの1ヵ月分の食糧をドゥビエに割り当てることを約束したが、配給はうまくいかなかった。輸送上の困難や、計画の立て方の悪さ、問題点や必要な資材への見通しが甘すぎたのが原因である。ウペンバ湖周辺では、食糧配給は全く行われていない。ドゥビエやマレンバ・ンクルに物資を運ぶためにはルブンバシから少なくとも2日を要する。現在、何千人もの避難民が1日1食だけで生き延びており、食糧は量的にも質的にも不足している。
MSFの集中栄養治療センターで治療を受ける5才以下の子どもの数は、新たな避難民により増大している。同様に地元住民の受診数も増加している。ムクブでは過去6ヵ月間、毎週15・0人の重度栄養失調の子どもがMSFのセンターに入院した。プウェト近郊の路上での診察では、病院に移送された21の重症例のうち、14人が避難民の子どもだった。ドゥビエの集中栄養治療センターでは、12月に入院した56人のうち28人の子どもがクワシオルコル(卵、豆、肉、魚などの蛋白質が急激に欠乏することによって起こる栄養失調)に罹っていた。その大部分は避難民の子どもであった。
III-3 公衆衛生と医療の需要

MSFは現在ドゥビエで、通常の診療件数に加えて1日平均70人の避難民の診療も行っている。避難民の多くは、発熱、胸部疾患性の咳、マラリア、寄生虫感染、急性呼吸器感染、下痢に対する医療ケアを求めてMSFを訪れる。これらの病状は全て劣悪な生活環境と関連している。避難民は畑や森の中で、衣服や毛布、テントも持たず、不衛生な環境で栄養のある食物を摂れないまま暮らしてきた。避難キャンプでの生活で、ますます健康状態が悪化している。
MSFは国際児童基金(UNICEF)から多少の支援を受けて毛布、石けん、ビニールシート、調理器具、貯水容器の配給を行い、さらに蚊帳を配布する計画を立てているが、十分というにはほど遠い。例えば、テントの資材や調理器具はカバロからドゥビエにかけて1万7千人以上に配られたが、それ以上の量が必要とされている。現在ドゥビエの避難民には1人1日あたり5・5リットルの飲料水が配られている(2)。ウペンバ国立公園周辺でははしかの予防接種が行われており、8千人の子どもが予防接種を受けた。しかし、これを上回る数の避難民が国立公園周辺の森に避難しており、MSFチームは依然として彼らに接触できない状態にある。プウェトでは主要道路沿いに暮らしている避難民以外には接触できない。
避難民はその場しのぎの暮らしで、身を守るものはわずかな毛布とすり切れた服だけである。雨によって状況はさらに悪化している。下のグラフは人びとのドゥビエにおける健康状態を示している。いまや地元住民よりも避難民の数の方が多く、その比率は5:9である。
【グラフ:ドゥビエにおける主要な疾患の罹患率 2005年12月】
さらに、ドゥビエの搬送保健センターは、急激な避難民の増加に対応できるようには設計されていないため、深刻な過密状態にある。プウェト近郊のキザビなどでは保健センターが略奪、破壊されたため、MSFは定期的な移動診療を行う他なくなった。ミトゥワバやマゾンブウェ周辺でも、いくつかの診療所が完全に焼き払われ、同様の状況が発生している。
加えて12月はコレラの流行がはじまる時期であり、MSFはすでにモバ、カバロ、アンコロ、キンコンジャ、ウペンバ湖の北、マレンバ・ンクル周辺で治療にあたっている。1月6日以来、キンコンジャ保健区域だけでも770人の新たなコレラ患者を治療した。うち34人が死亡した。カバロでは11月15日から1月12日までの間に190例が報告されている。MSFは体力の弱った避難民の間にこれ以上感染が拡大しないよう、トイレと安全な水の供給設備の完成を急いでいる。
紛争によるこれ以上の避難や、準備が整わないままの故郷の村への帰還は、さらに悲惨な状況を招くだけであろう。人びとが紛争当事者の両勢力によって強制帰還させられる懸念も増加している。
III-4 援助物資の横領と暴力行為
避難民は健康上の問題を抱えている上に、強盗や暴力の恐怖とも闘わなければならない。避難民によれば、プウェト、ドゥビエ、ミトゥワバ、カバロ地区では、軍によって鍋や毛布、その他の所有物が日常的に略奪されているという。
「兵士は夜にやって来て人びとを悩ませています。家を捜索するといって子どもたちを外に出して、物を盗っていくのです。こわいのは配給があったときです。いつも軍が来て、さっき私たちが受け取った物を懐にいれてしまいます。」
(2005年12月、40才の避難民女性)
軍による食糧の横領はミトゥワバでは常に指摘されている問題で、ドゥビエでも行われていたことがある。
ミトゥワバでは、地元住民、避難民が性別にかかわらず性的暴力や拷問を受けた時期があった。多くの場合、犯人は罪に問われなかった。
「4月に妹たちと一緒に保健センターに来たとき、武器を持った男に遭いました。腕を掴まれて森の中に引きずり込まれました。レイプされたのです・・・その男は指揮官に呼びつけられましたが、ただ説教されただけで・・・解放されました。」
(17才の避難民女性)
「私は夫と子どもたちと逃げていました。・・・3月にいちばん上の息子が軍に捕らえられ、数日後に釈放されましたが、他の家族は監獄の中で亡くなりました。 夫も捕らえられ、マイマイのスパイだと言いがかりをつけられました。出所したときには、体中が傷だらけでした。拷問で受けた傷がもとで、夫は今でも歩くのが難しい状態です。」
(2005年6月、38才の避難民女性)
最近では、12月中旬だけでも14才の少女を含む8人の女性が兵士にレイプされてMSFの治療を受けた。性的暴力はタブーであり不名誉であるとされているために、あまり報告されていない。
民兵による襲撃はマゾンブウェやキザビだけではなく、最近ではキボンドやキュボでも発生しており、避難民の不安を増幅させている。この不安が、MSFが避難民に近づくことや援助を届けることを妨げている。ウペンバ国立公園周辺ではMSFが攻撃される可能性が高まったため、生活必需物資の配布を一時停止している。この数週間、民兵による軍事作戦や攻撃により道路が遮断されている。1月にはMSFがよく使用する民間のトラックがミトゥワバから帰る途中に襲撃され、強奪された。トラックの運転士は、現在ではミトゥワバ行きを拒否している。
IV. 人びとは今も森の中に避難しているのか?
MSFは安全上、軍事作戦が展開されている地域には入ることが出来ないため、政府の支配地域まで危険を冒して移動することを望んだ避難民がどれほどいるのかについては分からない。マイマイに脅迫され、襲撃されてきた避難民は、FARDCによって逮捕されたり暴力を受けたりすることもまた恐れている。特に選挙人登録カードを持っていない場合はなおさらである。多くの避難民が依然として森の中から動けず、暴力や虐待にさらされている可能性がある。
「反撃があるだろうと聞かされていました。彼ら(マイマイ)は逃げられないように私たちを取り囲みました。」
(2005年7月、31才女性)
「最近、政府支配地域のに行けそうだという話を耳にしたのですが、選挙人登録カードを持っていないために思いとどまりました。行こうとしたのですが・・・。森の中にいたとき、コンゴ政府軍に出くわしました。おまえたちはマイマイだと怒鳴りつけられました。私は両手を挙げたのですが、妻は恐怖におびえて逃げようとして、足を撃たれました。私たちは子どもたちと一緒にいましたが、子どもたちもおびえて逃げだしました。」
(2005年12月、男性)
IV-1 破壊と貧困
多数の人びとが、村、畑や森など、どこにいても常に脅迫され、略奪され、そのたびにゼロから暮らしを立てなおさねばならないとMSFに語っている。
マイマイ派とコンゴ政府軍との戦闘では昨年と同じく最近も、片方が退却すると他方は避難した人びとの家を略奪し戦利品としてしまう。食糧から入り口の柱に至るまで、文字通り身ぐるみはがしてしまうのである。
これらの対立は別として、マイマイ派の維持費のための自発的、また非自発的な「貢献」は悪循環に陥っており、マイマイは村や畑、森など通る場所すべてで目にしたもの、欲しいと思ったものは、豚、家禽類、鍋、布団にいたるまで何でも略奪してしまう。
比較的経済に余裕のある人びとは、さらに放火の標的になる危険性が高い。商人の残していった商品や村長の身の回りの品には火が放たれる。
「マイマイは来る度に全部持って行ってしまいました。目に入るものすべてを。石けんや清潔な布、靴、全部持って行かれました。」
(32才、女性)
2004年4月、ミトゥワバ周辺とその北部の住民は、マイマイとコンゴ政府軍それぞれによって、各陣営支配下の地域間を自由に行き来することを禁じられた。両陣営とも侵入されることを恐れていた。移動の制限はドゥビエ周辺の住民に対しても適用され、商人は嫌がらせを受けたり逮捕されることに不平をもらした。交易が停止するということは、食糧や他の生活必需品が手に入らなくなることを意味した。
「3月、コンゴ政府軍の支配地域にピーナッツを売りに出かけたところ、2日にわたって拘束されました。スパイだと疑われたのです。やっと釈放されたと思ったら、今度はマイマイに逮捕されました。」
(40才男性)
避難民からの報告によれば、軍との戦闘のあるなしにかかわらず、マイマイが村を丸ごと焼き討ちする例がますます増えているという。多くの場合これが避難を決断するきっかけになる。多くの避難民は再び家に戻ることを考えるため、持ち出す荷物はわずかである。
「村から煙が立ち上っているのをみるのは2回目のことでした。夫は様子を見に行きました。マイマイが家を焼き討ちしていたのですが、台所はまだかろうじて残っていました。家を燃やされ持ち物は全て盗まれ、そこを後にせざるを得ませんでした。鍋や、マット、衣服、何ひとつ持ち出せませんでした。」
(2005年5月、39才女性)
IV-2 暴力と脅迫

避難民は村にいようと、畑や森にいようと心理的な恐怖を味わい、暴力をうけてきたとMSFに語った。マイマイ派による徴兵はもはや強制であった。入隊を拒否した者の家族には殴打か死の危険が伴った。そのため息子、夫、叔父たちは家族の「名誉」と自身の命を守るために代わりにマイマイ派に加わった。
「マイマイの中には若い人も年老いた人もいましたが、特に多かったのは若者です。マイマイは若者を拉致して入隊を強要するのです。拒否すれば、死が待っています。」
(46才男性)
また複数の避難民が、マイマイの兵士もコンゴ政府軍の兵士も、森や畑の中で村人をレイプしていたと語っている。ドゥビエ周辺では強制的な結婚が頻繁に報告されており、花嫁の対価として形ばかりの金や現物が支払われる場合もあった。
「娘はマイマイに連れられていきました。一人のマイマイが16才の娘をみて、結婚を申し込んだのです。私たちに何が言えるというのでしょう?もし断ったら殺されてしまうでしょう。娘は家族の名誉のために行ったのです。結婚持参金としてビーズ玉を受け取りましたが、これが何の役に立つのでしょうか。」(36才女性)
避難民が共通して語るのは、そのほかの形をとった暴力が男女を問わず、子どもにも及んでいるということである。新兵徴集は悪い出来事の一つであるが、それよりさらに悪いことがしばしば起こっている。たとえばマイマイ派は、報復をすると称して家族や他の村民らを生きながら焼き殺すのである。
「ピーナッツを植えるために外出していました。夜のうちにマイマイが村に来ていました。24人いたマイマイのほとんどは18才くらいでした。15才の少年も数人いました。銃と・・・弓、矢、ナイフなど、昔からある武器を持っていました。マイマイは私を殴り、縛り上げて『おまえはコンゴ政府軍の手先だ』と言いました。そして私の耳を切り、それを銃につけました。私が襲われる前に、すでに2人の男性が殺されていました。」
(2005年12月、52才男性)
マイマイが現れるたびに、また彼らがそこにいるというだけで、不安や恐怖がわき上がるのである。マイマイが支配する地域ではどんな恐ろしいことも起こり得たので、避難民たちは心の底から恐怖に震えている。
「マイマイはいつも大勢でやってきます。首には呪物として男性の生殖器や人の手首を巻き、腕輪をつけ、顔を赤く塗っています。マイマイが出没するところには必ずパニックが拡がります。人びとには為すすべがありません」(37才男性)
V. 結論
カタンガ州中央部の住民の窮状と苦しみは、国際社会からも国内の当事者からも全く無視されている。そのために住民が被っている虐待や暴力、病気や脆弱性がさらに深刻化している。
国際赤十字(IRC)とMSFによる最近の研究は、コンゴ民主共和国全域にわたる死亡率の高さを際立たせる結果となった。死亡率は、緊急事態と定義される水準である1日1万人あたり2人という数字を上回ったままである。5才以下の子どもが特に罹りやすい、適切な処置をとれば防ぎうる病気がその主因となっている。(3)
今なお続く情勢不安と、緊急の援助ニーズに対する政府や政府以外の援助従事者の無関心のために、カタンガ州中央部は特に憂慮すべき状況に陥っている。地域全体が絶え間なく危険にさらされていること、そして住民に直接向けられる暴力が、地域のあらゆる場所で避難民が発生し続けている原因である。全ての武装勢力は住民を尊重し、彼らのための人道援助活動を保証する必要がある。
避難民と受け入れ側住民の健康と栄養は不安定な状態のままである。援助従事者の一部は避難民を家に帰すことをすでに検討しているが、力を失った避難民を故郷の村に帰したとしても彼らのニーズが満たされることはないだろう。故郷には何一つ残されておらず、情勢は依然として不安定なままだからである。
食糧問題は主要な問題であるが、衣服、毛布、テント、蚊帳、水、衛生設備といった面での援助もよりいっそう必要とされている。物資輸送上の制約や、明日のために計画を立てていることを、今すぐ活動しないことの言い訳とするべきではない。緊急の援助ニーズが明らかに存在しているにも関わらず、カタンガ州でMSF以外の人道援助団体がだれも活動していないという事態は理解しがたい事実である。
(1)キャッサバの根は9月には5つで50コンゴフラン(CF)であった。現在、同じ値段で3つしか買うことができない。またトマトは9月の時点では1つ25CFだったが、現在は50CF。
(2)1人あたり5リットルの水は、緊急事態の際に1・日持ちこたえるために、最低限必ず必要な量である。その後の最低限の目標は、1人につき20リットル用意することである。
(3)「DRCにおける医療へのアクセス、死亡率、暴力」(MSF、2005年)、および「コンゴ民主共和国における死亡率:2004年4-7月全国調査結果」(IRC & Burnet Institute、2005年)















