ダルフールの避難民
国境なき医師団(MSF)スイス支部 オペレーション部長 ブルーノ・ヨッフム

2006年から2007年にかけて、スーダン・ダルフール地方の状況は依然として世界で最も危機的であった。200万人を超える避難民の頼みの綱は外部からの援助であるが、一部の地域では戦闘が恒常化しており、それが新たな暴力と避難につながっている。
2005年5月にスーダン政府と反政府勢力の一部との間で調印された和平合意は、その後1年間にわたり戦闘を沈静化させた後、逆説的なことに再び紛争状態を呼び起こした。このため人道援助従事者が遠隔の地域に効果的な活動を届けることは、著しく困難になった。さらに、この紛争はチャドや中央アフリカ共和国に波及する地域的なものに拡大し、これらの国では多数の一般市民が村を焼け出されている。ダルフール地方の一般市民は極めて危険な状況に囚われており、国境なき医師団(MSF)の医療チームは、移動と安全の面で深刻な活動上の制限に直面している。国際政治の分野においては、ダルフール危機とメディアによるその報道のされ方そのものに利害が生じ、さまざまな利害関係者の道具となる危険を伴っている。
2003年から2004年にかけて、ダルフール地方で激しい暴力行為が相次いで勃発し、人びとは都市部から周辺地域へと大規模に避難することになった。これらの暴力行為は、政府が計画した反政府勢力への攻撃の一環であり、同地方の地域的な支配を確かなものにすることと、反政府勢力と結びついているとされる諸部族の処罰を目的としていた。砂漠化が進行する中、遊牧民と定住農民の間で土地を巡る緊張が高まっているが、中央政府はそれを政治的に利用している。その結果、数多くの村が灰燼と帰し、農民が暮らしていた痕跡が跡形もなく消し去られることもある。抵抗の意志をそぎ、標的となった人びとが生まれた土地から確実に逃げ出すように、殺人やレイプなどの恐怖を煽る手段が用いられている。
2004年前半の危機的局面を過ぎた後、キャンプで暮らす避難民の状況は、死亡率と疾病率の面では安定した。これは、大規模かつ効果的な人道援助パイプラインが確立されたためである。スーダン政府は主な攻撃目標を達成した2004年4月に、国際的圧力の下で多数の人道援助従事者が活動を展開することを許可した。2006年時点では、全体で約900人の外国人援助従事者と約1万2千人のスーダン人スタッフがダルフール地方で援助活動に携わっていたと推定されており、人道援助の歴史上最大規模の活動となった。主要都市は援助を運ぶ中継地点として活況を呈し、医療ケアへのアクセスが改善したことで、ほとんどのキャンプで栄養失調や感染症の発生が予防できるようになった。
MSFが2006年にダルフールで行ったプログラムの数は合計で19、予算は1695万ユーロ(約2172億円)にのぼり、現地スタッフ約1700人と海外派遣スタッフ100人を雇用している。病院での治療・手術から一次医療センターや栄養医療センターでの対応など多岐にわたる活動は、主としてキャンプ内に重点を置いている。地方部の多数の人びとに対しては、当初は移動診療を実施した。2006年には、紛争状況下で常に新たに発生する援助ニーズにより迅速に対応できるよう、一部の地域の活動は他団体に引継ぐ試みも行った。
しかし、前述した人道援助パイプラインの奏功には、異なる次元での危機が伴う。キャンプに避難した人びとは、生活の全てを援助に依存し経済的な生活手段を持てないまま、キャンプに囚われ続ける以外の未来がない。彼らの多くは家族の一員を失い、家や財産を破壊されるのを目の当たりにしている。キャンプの外では、ほとんどの道路は武装した民兵や移動を管理する現地の自衛勢力の監視下にある。女性たちは薪を探すためにキャンプの外に出掛けなければならず、暴力やレイプの犠牲となることもしばしばである。2006年には、襲撃や武力衝突のために新たに25万人の一般市民が避難を余儀なくされ、拡大するキャンプに加わることを余儀なくされた。これらのキャンプを、逃げ出した人びとの「安全な避難場所」として機能していると見なすか、あるいは「強制的な避難政策」の一環であると描写しうるかの間には大きな隔たりがあり、理解するのは容易ではない。現実には、恐らく両方の性質を併せ持っているのであろう。
郊外においては、一方では政府が代理民兵に武器を供与しており、他方では反政府勢力が細分化しているため、主要幹線道路の治安が極めて悪化している。他の多くのNGOと同様、MSFも2006年9月にニエルティティ付近で起きた深刻な事件などの犠牲となったため、活動の再考を迫られ、危険性の高さのために移動診療を中止した。またセリフ・ウムラ、ケブカビヤ、ジェベル・ムーン近郊のセレイアなどでは、プログラムを一時休止した。このような状況下において、強盗行為、衛星電話を持ち四駆自動車に乗った多数の略奪者などによる戦争経済、そして武装勢力の区別が非常に曖昧になっている。MSFの医療チームは、勢力間の1対1の対立という単純化した図式を避ける必要性を、しばしば強調している。政府当局の中でさえ、警官や官庁職員などの公務員がいわゆる「ジャンジャウィード」の常態的な犠牲者となっているが、他方では反政府勢力が互いに襲撃し合い、人道援助車両を攻撃することもある。現地の部族間の同盟関係は時に変化し、また現地当局と民兵の緊張を中央政府が利用することもよくある。
しかし、この地域レベルの混乱というイメージによって、ダルフール地方において繰り返されている構図が隠されることは許されない。人道援助団体からすると、軍事行動の前や行動期間中には道路の治安が悪化し、一般市民は国際報道の目や緊急支援から切り離される。

例えば、2006年にはエル・ジェニーナ北方のセレイアとジェベル・ムーンへと続く道路が組織的な待ち伏せ攻撃の脅威にさらされた。ある日、武装襲撃から逃れて新たにタンジェケの村に避難した人びとの状況を確かめようと、MSFチームが現地の医療状況と生活環境の調査に赴いた。貯水容器、毛布、避難用のビニールシートなどの基本物資のニーズが極めて高く、避難民は親政府派の民兵がすぐ近くにいることから恐怖に脅えながら暮らしていることが明らかとなった。その帰路、MSFの車両が武装した男たちによって停止させられる事件が起きた。幸いにもMSFの現地スタッフの交渉によって、重大な事件になることを辛くも免れることができた。しかし、このような状況で効果的な援助を続けていくことは、極めて多くの危険に満ちている。他の多くの戦争状況下と同様、ダルフール地方で活動するMSFチームは、遠隔地の避難民らの「何よりもまず保護が欲しい」との声に対し、効果的な援助を提供する限界に達しつつある。2003・004年に数十万人の犠牲者を出した集団暴力は過ぎ去ったものの、同じように急襲、村の焼き討ち、女性へのレイプ、そして男性に対する報復など、軍事戦略の影響に苦しむ地域は、未だに存在する。
・ダルフール地方における危機で注目すべきは、紛争当事者が自らが関わっている紛争の事実とは異なるイメージを作り出してきた点である。スーダン西部地域で発生している暴力行為に関し、同国政府が一貫して直接的な責任を否定し、反政府勢力の行為と分裂を非難する態度を続けていることは驚くにはあたらない。その一方で現地からの報道は、キャンプが安定しつつあり、2006年の直接的な暴力による死者数は2003年、2004年と比べて劇的に減少しているという事実(国連のデータによる)を十分に考慮していない。北大西洋条約機構(NATO)の軍事介入を要求する者もいるが、これは別の紛争の局面につながりかねず、また人道援助活動が紛争当事者に受け入れられている現状を脅かし、人道援助の原則である独立性と中立性を危険にさらす。
MSFはこれまで数度にわたり、人道援助活動を平和や正義などの国際政治の大義と関連付ける考え方、あるいは各国政府が介入の是非を問う議論の材料として人道援助を利用する方法に対し、批判的な立場を取ってきた。2003年と2004年にはダルフールで大規模な虐殺が起きていたが、国際社会は反政府組織スーダン人民解放軍(SPLA)との交渉を成功させ、包括的な和平合意を成立させるために、意図的にスーダン政府に圧力を与えない選択を行った。他の国と同様に、米国と中国は国連の安全保障理事会における常任理事国として、スーダンに情報提供協力から油田開発におよぶ幅広い分野での戦略的な利益を有している。このような状況を鑑みれば、単刀直入に言って、ダルフール地方におけるあらゆるイニシアティブについてスーダン政府の同意を得ることが前提条件であったことは、当初から明らかであった。国連の平和維持活動軍が派遣されるまでに、紛争のピークからほぼ4年もかかったのはそのせいかもしれない。2007年になって人道回廊を開設する提案が出たが、既に援助体制は整備されていたため、これはほとんど見当違いであった。
最後に、ダルフール地方におけるアクセスは、武装グループおよび当局の意思により厳しく規制されたままであるが、人道援助は援助に依存する数百万人の命を救っている。MSFはダルフールで活動を行う以上、援助を絶たれたあらゆる地域へのアクセスを求め、障害に直面したときには、どのような障害に直面しているかを証言する責任を負っている。MSFの社会的任務を実現するためには、公平と独立が絶対的に不可欠である。














